国立西洋美術館は、今年で開館50周年になる。私は開館2年目に訪館しているので、私にとってこの美術館は建物の歴史と一緒に歩いた青春時代からの思い出がビッシリ詰まった美術館である。
この美術館はル・コルビュジエが設計したことで知られている。ル・コルビュジエの作品群が世界文化遺産に登録申請をしていることで日本に唯一ある彼の作品「西洋美術館側」も盛り上がったが、残念ながら今年は選に洩れた。それでも開館50周年記念で8月30日までル・コルビジュエと国立西洋美術館」とタイトルする小展示会が常設展示場の2室を使って行われている。
この日、朝早くに事務所に一本の電話が入った。「奄美の町です」。電話の声は若い女性であった。私はとっさに電話の主が町ゆかりさんであることと上京していることと私に会いたくての電話であると察した。
町ゆかりさんの夫は文化人類学者。ゆかりさんは首里城再建のプロジェクトメンバーであった。沖縄県那覇市小禄出身の人である。奄美の町氏と結婚して、姓が変わった。
話は飛ぶが1609年、琉球弧を植民地化した島津藩は、わずか二十数名で広域にわたる島々を統治した。それは現地の人々を抜擢し、島役人として登用したことによる。奄美と琉球を区別するために、奄美の島役人は姓が一文字、琉球は姓を三文字とした。その流儀によれば「町」姓は、先祖が島役人であったことを意味している。
さて、ゆかりさんは奄美で田中一村記念美術館を有する県立奄美パークの学芸員になった。私が出会ったのはそのころである。持ち前の行動力と知的関心の高さとがマッチして、町ゆかりさんも夫と同じくいまや琉球弧における現場主義文化人類学者の第一人者であると私は思っている。昨年は郷土を知ってもらいたいと「愛加那、浜昼顔のごとく~シマの心、受け継ぐ強さ」のビデオ教材の脚本を書いた。西郷隆盛が奄美大島に流刑になってから現地妻愛加那(龍愛子)と菊次郎など子ども達のことを描いた作品である。
午後に来訪してくれたゆかりさんは「奄美が琉球弧の基準になるのです。奄美を語らずして琉球弧は語れないのです」といった。それから壮大な琉球弧における文化人類学の話が始まった。私にとっても新鮮な話であった。しかし「歴史の整理はつかないでしょう」と私は言った。「たった今、この一瞬をスライスして森羅万象の点をつないで整理することは出来ますか。過去は無限ともいえる事実が点と線と面で無数につなぎあった時間と空間で存在する巨大な混沌の世界です」。カオスを人間が整理できることはないのである。「もし出来ると考えているのなら脳の傲慢です」私はゆかりさんが琉球弧の歴史をいかにつなげるか苦慮していることを聞いて誡めた。
奄美群島は人口減に悩んでいる。人がいなくなったら奄美群島は無人島になる。無人島になったら奄美群島の文化人類学はなくなる。島唄も、大島紬も、黒糖焼酎も、人の人情も、すべてはなくなってしまう。やがては語り継ぐ人もいなくなってしまう。だから人はその土地で生きて、暮らしを営むことだけで生きている価値があるのだ。奄美大島は沖縄を目指す必要はまったくないのである。
町さんは最終便で沖縄へ戻るといった。私は夕刻から人と会う約束があった。「それなら町さん。一時間ほど時間があるので、ル・コルビュジエの展示会を観にいきましょう」と誘った。
ル・コルビュジエは、国立西洋美術館の建築用地を見るために一回だけ来日した。8日間の滞在であったが、京都や奈良にも訪問したので上野に滞在した期間は限られていた。それでも昼も夜も、4回ほど現地を訪問し、帰って図面を書いた。本人はそれきり来日しないで、西洋美術館はル・コルビュジエの弟子であった坂倉準三、前川國男、吉坂隆正氏らの力で完成させた。西洋美術館は1959年に開館し、ル・コルビュジエは1965年に他界した。
ゆかりさんは首里城復元のプロジェクトを語った。「沖縄戦ですべては破壊され図面は何一つ残っていなかったのです。首里城の赤色はどうすれば復元すればよいか皆目分からなかった。それが奄美に残っていたのです」
西洋美術館の常設展は新館ができて展示スペースが増えたので絵も増えたが、それにしてもヨーロッパの美術館と比べるとあまりの貧弱さに情けがないと思う。日本ほどの経済力があれば国立西洋美術館にふさわしいたくさんの絵画を集めることが出来るだろうにと思う。スタートが松方コレクションであることは承知のことだが、懐かしい絵画が並ぶ西洋美術館に立つとヨーロッパの美術館と比較が始まってしまうのである。
私にはこのあとの仕事をするために限界の時間が到来していた。ゆかりさんは那覇行きの航空機に搭乗するまで時間がまだ残っている。別れ際に「今日電話をして良かったです。お会いできてよかったです」と心からの表情を見せた。そして「服部さんはうちの母と同じ歳です」と言った。二人は何度も出会っているが、初めて握手をして別れた。「流されることなく目標を定めてその実現に向かってしっかりと生きなさいよ」「はい。そうします」と意味がこもった父と娘が交わす握手であった。