立原道造が設計したヒアシンスハウスのことは建築家中村好文氏の著書で知っていた。しかしわずか5坪のその小屋が埼玉県浦和の別所沼のほとりに建てる予定であったことと、別所沼のほとりに設計図通りの風信子荘(ヒアシンスハウス)が建てられていることを知ったのは最近である。私は今週は執筆が続いて、集中力の持続に自信がなくなっていた日曜日、仕事をやるのを中止し、別所沼公園のヒアシンスハウスを訪れた。埼京線中浦和駅ホームの向こうに見える木立が別所沼公園である。
ヒアシンスハウスは雑草の生い茂る中にあった。
立原道造の設計コンセプトが残っている。
僕は、窓がひとつ欲しい。
あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。
僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……
原則として週末は係員がいて室内に入れることになっているが夏の日、鎧戸は閉まったままになっていた。
立原道造は1939年(昭和14年)3月29日に病死した。24歳8ヶ月しか生きずに文学史上に、そして建築史上では才能溢れる若手の建築家に贈られる立原道造賞が設立されるほどに名を残すとは驚くべきことである。大学の先輩である詩人三好達治は次の言葉を残して夭折を哀しんでいる。
暮 春 嘆 息
―立原道造君を憶ふて―
人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に 清純に
純潔に生きなければならなかつた
さうして君のやうに また
早く死ななければ!
三好達治
また室生犀星は孫弟子にあたる立原道造に次の詩を残している。
木の椅子 室生犀星
人は夕ばえのなかに去り
君は神のみ脛を踏んだ。
そのため、肺を悪くして逝った。
君は何度も庭の木の椅子の上にねむった。
子供だと思って人は君を對手にしない。
對手にしないから君はねむった。
その君の姿はわが庭にある。
誰もそれをさまたげはしない。
立原よ
今夜も泊っていってくれ。
私はなぜヒアシンスハウスが死後65年経ってこの地に建築されたのかを考えた。 結論は厳しい評価であった。この家をここに再現しようと企画した人がいる。 「立原道造が果たせなかったヒアシンスハウスを我々の手でこの地に残そうではないか」と。さぞかし燃え上がったことであろう。 この小屋は立原道造の凛としたヒアシンスハウスでなければならない。 いつだって山野草を描いた深沢紅子画伯の旗がひらめいて、立原道造が窓辺の椅子に座って午睡をしているようなヒアシンスハウスにしなければいけない。麦畑の中にある物置小屋のように鎧戸の閉まったヒアシンスを見て私は誰のための夢浪漫なのか目的が見えなくなってしまった。
ぐずついた天気が続いた今年の夏には珍しく灼熱の太陽が別所沼公園を照りつけた。パソコン画面を終日見続けてドライアイになって、私の瞳孔はまぶしさのあまり絞り機能が壊れたように開いて空も地もヒアシンスハウスも同化して白一色に映っている。
私は白昼夢を見ている錯覚に陥った。目の前の建物は立原道造が建てたものではない。死後65年を経過して立原道造の知らない人が建てたものだ。同じ図面を使って建てたがこれはヒアシンスハウスではない。立原道造が造った図面で建てるとこうなったというだけのものだ。この建物を造る建築史上の課題はあるのか。しっかりと再評価をしないまま作っているから物置小屋でしか見えないのである。
私はポケットから安物のサングラスを取り出して白化して映っている目を正常に戻した。からだ中から力が抜けてきた。私は気を取り戻すと元来た道を戻った。室内に入ることができればまた別の感想が生まれたろうにと思いながら歩いた。この暑さも災いしていた。足取りは決して軽やかではなかった。