8月1日にクルマで軽井沢へ出かけた。夏休みでしかも高速道路料金が安いときているから道路は渋滞で、我が家から軽井沢まで170KMを平均時速30.9KMで走り、ようやく到達したのは午後をかなり回っていた。そんなわけで「軽井沢の守り人」鈴木美津子さんと会う約束の時間はとうに過ぎてしまっていた。
鈴木美津子さんのお父さんが軽井沢駅長として赴任したことから美津子さんも子供のころから軽井沢に慣れ親しんでいた。その影響もあって、軽井沢へ定住するべく南が丘に土地を購入し家を建てている途中に、一人娘の良恵さんを失ってしまった。出産時における医療ミスが原因であった。お嬢さんは軽井沢の自然をこよなく愛した美津子さんの分身であった。失意の美津子さんはある時、乱開発で軽井沢の樹木が次々と失われていることに気づく。そこで今は亡きお嬢さんと一緒に樹の命を救おうと「しいある倶楽部」を設立し自らが代表となった。
良恵さんが子どものころ「風吹く国のお姫様」を愛読していた。その主人公が「しいある姫」。良恵さんは自分の名前を良恵とは言えずしいちゃんと呼んでいた。それからしいあるは良恵さんのニックネームになった。
軽井沢の樹は個人所有のものであっても、軽井沢全体の財産。残さなければならない古木や大樹を切る時は、しいある倶楽部に相談してください。無償でその樹を自分の敷地に保護して、里親を探して移植をしますというボランティア活動が、しいある倶楽部の活動目的である。
鈴木美津子さんは、積極的に行動をした。道路拡張で山桜やこぶしの大樹が伐採されると知ると町役場へ出かけ、樹の保護を申し出た。旧軽井沢ロータリーの巨木を切って公衆トイレを作るときも巨木の伐採を反対した。樹があるから軽井沢の風景がある。樹を切ってしまったら軽井沢ではなくなっていく。こうした努力が少しずつ実り、いまではスタッフも多く抱えてボランティア活動を広げている。
いま私たちが立っている場所はウスバシロ蝶が乱舞していた森である。私たちはウスバシロ蝶や、ひょうもん蝶や、くじゃく蝶の話に花が咲いた。鈴木美津子さんは始めてウスバシロ蝶を見た日に、予定していた新幹線を遅らせて、蝶の姿に見とれていたと語った。私もそうしてしまうでしょうと笑って聞いた。ウスバシロ蝶の食草はムラサキケマンであるところから話題は山野草に移った。鈴木美津子さんは山野草の畑を持っていて原種を育てていると語った。
いまでも鈴木美津子さんは、自分の本音は良恵のそばに行きたいという。けれども哀しみは光と化す。悲嘆の涙で暮れながらも良恵さんが好きだった軽井沢の自然を守る仕事に精を出す鈴木美津子さんの選択が、しいある倶楽部となって、軽井沢の住み人の心の中に、小さな花を咲かせている。
しいある倶楽部は町が管理する街路樹の剪定ボランティア活動もやっている。一日に何件も相談の電話が入る。スタッフは謙虚だ。やってあげるなどと高慢な態度はない。電話が入ると鈴木美津子さんはスタッフと一緒に現場に出かけて話しを聴く。そうしてから「樹を切らない決断をしていただいてありがとうございます。樹に成り代わって心から御礼を申し上げます」。と御礼の挨拶をする。いまや、軽井沢住人と別荘族でしいある倶楽部と鈴木美津子さんを知らない人はいない。 私たちは話が尽きなかった。
R18バイパスの上りは渋滞であった。私は南が丘からバイパスを下り、塩沢の交差点から女街道を抜けるコースを選んだ。女街道ではもうサルビアの花が咲いていた。私はクルマを止めて左ドアのガラスを開けて運転席からサルビアの花を映した。瑞々しい赤い花が目に飛び込んできた。
「風になったしいある。軽井沢産婦人科医療事故の手記」(鈴木美津子著)は、Amazonで購入できる。ぜひ一読をお勧めしたい。
人は専門性を持つことによってのみ一隅を照らすことができる。鈴木美津子さんは環境保護の専門家として、しいあるちゃんと一緒に軽井沢の環境保護分野での一隅を照らす人になるに違いない。このようなことは地元の人ではできないのである。
「軽井沢の守り人」このフレーズがふと頭に浮かんだ。愛する娘さんを医療事故で亡くした苦しみを背負いながら軽井沢の樹木を伐採から守る戦いを続けている鈴木美津子さんにピッタリの言葉である。