この日は中秋であった。軽井沢の天気は午後から晴れるとなっていた。知友と二人で軽井沢へ出かけた。知友はまもなく日本を離れる。はなむけのドライブ旅行であった。はなむけとは中国の古い文に出てくる旅立ちの人を送る行為のことである。古代中国で旅立つとは、多くの場合国境を守る兵士として出征することだ。街の近くには門があって、送る人は馬の鼻先を一斉に出征する方向に向けて道中の無事を祈念する。古文には「馬の鼻向けをす」と書いてある。しかしいつの間にか鼻向けは餞(はなむけ)に変わった。「食ヘン」に「銭」である。餞の言葉とは道中や赴任先が無事でありますように祈念する言葉である。そして餞別とは、はなむけの別れである。いま、餞別といえば旅立つ人へ送るお金になっている。だからはなむけの旅行とは旅立つ友を送るため、思い出作りの旅である。
土曜日というのに高速道路は空いていてあっけなく軽井沢へ着いた。往復の運転は知友に任せた。運転は静かで安全であった。R18バイパスには大きな温度表示盤があって13℃と出ていた。薄手の長袖シャツでは寒く、私たちはトンボの湯に直行した。とても柔らかな湯を知友はことのほか気に入った。それからハルニレテラスのそば屋で、鴨肉そばを食べた。湯川が鮮烈なる音を立てて流れている。私たちは写真右に見えるデッキに出て(画像クリックしてください)ストーブで足元を暖めながらイオンを満喫した。星野リゾートの社長は、ハルニレテラスだけでなくトンボの湯駐車場も有料にした。2000円以上で2時間無料である。ハルニレテラスはどう見ても成功しているとは思えなかった。入らない店では店長らしき人が客引きをしてお変わり無料と叫んでいた。我々が入った蕎麦屋の量は少なく、普段食べているそばの三分の一程度で価格は二倍強であった。まあ、いい。すべては顧客が決めることだ。やがてハルニレテラスの審判を顧客が下すであろう。
私たちは紅葉を探そうと北軽井沢へ沓掛街道を北上した。しかし例年は10月下旬が見頃だから、まだ早い。このまま、話題の八ッ場ダムの現場まで行って草津白根に登れば紅葉には出会えるだろうと思ったが、止めた。我々は浅間牧場できびすを返した。
白糸の滝は水量が多く,ごうごうと音を立てている。この滝はハルニレテラスの横を流れる湯川につながる。浅間山に降った雨や雪がここにたどり着くのに6年の年月が掛かると説明されているが、誰がどのようにして計測するのであろうか。
白糸の滝コースはなぜか有料で旧軽井沢に通じる道だ。私たちは室生犀星夫妻の墓を参り、それから犀星の詩を二人で声を上げて朗読した。この墓は犀星が生前に準備した。軽井沢をこよなく愛した室生犀星は既に決まっている金沢市にある野田山墓地だけでなく、この地に分骨したいと願った。そして自分で墓となる石像と詩を刻んだ碑を建立しそれから2年後に73歳で逝去した。犀星は中国の大連に行った折に朝鮮に回り、釜山でこの二体の傭人石像を買い求めて東京の自宅に置いてあった。それが夫婦の墓石となった。犀星にとってこの海外旅行は初めてで最後のものであった。しかし当時は満州も朝鮮も「日本の占領地」であったから、今の海外旅行とは意味が違う。上の写真は傭人の石像を背後から写したものである。
碑に刻まれた詩は犀星の詩集「鶴」の巻頭を飾った「切なき思ひぞ知る」である。当時失意の底にいた犀星が、心機一転やり直しをしようと決意し田端に移った時代に謳い上げた力強い名作である。
犀星は加賀藩の足軽であった父と女中との間に生まれたいわば不義の子である。雨宝院住職の計らいで住職の内縁であった女性との間にできた子として届けられる。小学校を3年で中退して金沢地方裁判所の給仕として働きながら、やがて独学で詩を学ぶ。犀星の人生はまさに苦闘の連続であった。
自身が文学碑を建立し、一遍の詩を選び、改変まで碑に切り刻んだからには、犀星にとっては思いがこもった詩である。私は犀星の詩が大好きである。犀星の詩は人生そのものを語っているからだ。だから誰にでも共通した体験がプリンシプルで普遍性を以って詠まれている。だから人の心を打つ。この詩の圧巻は、我は常に狭小なる人生に住めり/その人生の荒涼の中に呻吟せり/さればこそ張り詰めたる氷を愛す/の部分である。
この詩を詠むたびに犀星の人生を知れば知るほどに胸が詰まってくる。呻吟せりとはうめき苦しみ続けたということ。しかし詩は前向きに生きようとするエネルギーに満ちていて力強い。朗々としかも禅宗の悟りに似た苦闘の末に人生を肯定した歓びさえ感じる。晩年に数千にも及ぶ詩作の中から本詩を選択したことで、犀星の生涯にわたる精神のありかたを思い測ることができる。
切なき思ひぞ知る
室生犀星
我は張り詰めたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はその輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張り詰めたる氷を愛す
斯る切なる思ひを愛す
昭和三十五年十月十八日
ここの地には伝説の建築家吉村順三氏が自らのために建てた別荘がある。日本の建築家にとってこの別荘は巡礼の地である。この別荘は本人の手で一冊の本になっている。しかしこの写真ではなぜなのかその理由は分からないであろう。後ろを振り向くと奇妙な花が咲いていた。
私たちは空腹であった。ハルニレテラスの鴨肉そばは実に少量でとても空腹を満たす量ではなかった。食い物の恨みは恐ろしいと私たちは笑いながらハンドルを万平ホテルに向かって切った。犀星の別荘は碑の近くにあるのだが、毎年9月末日で閉館する。3日遅れで知友を案内することができなかった。
万平ホテルの庭はいくらか紅葉していた。ジョン・レノンがこよなく愛した万平ホテルのテラス喫茶ルームでトーストを食べた。ここに働く人たちは軽井沢だけではなく佐久や小諸から通っている人が多いので気さくで暖かい。私が「せっかく万平ホテルの喫茶ルームに来たのだから・・」というと若い店員はすぐさまロイヤルミルクティですか?と言って笑った。ジョンレノンが好んで飲んだ伝説のミルクティである。「いや珈琲です」というと、「せっかく万平ホテルのテラスに来たのだから・・とおっしゃる方は多いのですがそう言って珈琲を注文なさる方は初めてです」と明るく屈託のない笑顔で注文を受けた。
私たちはずいぶんと話をした。朝9時から夜の8時ころまでいろいろな話をした。朝は話に夢中で関越大泉に抜ける首都高の三叉路に気づかず直進して浦和へ出てしまい、浦和から関越川越インターまでは一般道路を走ることになった。軽井沢にあっけなく到着してしまったのも、話に夢中であったからだ。
軽井沢で夕食を食べようと思ったが藤岡のパーキングエリアで私は上州鳥弁当を予約していた。家内のリクエストに応えてしまったのが失敗であった。シェ草間で晩餐をと思ってからはっと気がついた。この弁当は大人気でいつも完売してしまう。しかも律儀な店で予約をすると、きちんと取り置きをしてくれる。だから悪くてキャンセルができない。しかもこの店は午後7時で店を閉める。
しまったと思いつつも、そこで私たちはつるやで海苔巻きやらを買い込んで車内灯を灯してクルマの中で食べた。実に質素な夕食であったが、思い返すと少量のそばとトーストとスーパーの海苔巻きが今日の食事のすべてであった。なんと粗末なはなむけの旅行と思いながらも、ふと東の空を見るとクルマのシートで黙々と海苔巻きをつまむ私たちをも照らしてくれる中秋の月明かりがあった。見送る知友を照らすはなむけの名月であった。