晩秋の伝通院を歩いた。空は抜けるような青さで冷たい風が音を立てて鳴っていた。私はマフラーを首に巻いてゆっくりと歩いた。つかの間の休息であった。墓は誰のためにあるかを考えていた。科学がこれだけ発達し、死が解明されているいま、現代人の死生観は大きく変わっている。墓地のところどころに寺院からの札が立っている。この墓の持ち主と連絡が取れない。知っている人がいたら教えてくださいというものだ。
家系が絶えることを昔の人は忌み嫌った。いまでもそう信じる人はたくさんいる。けれどもこどもが女子であったら婿養子をとらない限り家系は絶える。すると墓を守る人がいなくなる。これが家系を絶やしたくない最大の理由だ。
私の親友にもこの悩みを抱えているものがいる。自分は4つの墓を守っているのだが、同じまねを一人息子にさせたくはない。自分は4つの墓に眠る人の幾人かは知っているが息子は誰も知らない。見ず知らずの墓をしかも4つも守ることなどさせたくはないが困ったものだというものだ。詳しく聞くと彼の父親には3人の兄弟がいるのだが跡取りがいない。その墓の管理料を支払い、お盆には坊さんを連れて読経をし、節目には供養をし、墓掃除を行うというのが彼が行っている墓を守る実態であった。
私は親友にアドバイスをした。「日本列島に人類が住み着いて以来、どのくらいの人々が生まれて生きてきただろう。その全部に墓があっていまでも誰かが守っているのですかね」賢明な親友はこの一言で呪縛から解けた。
こんな立派な墓石を持つ墓地でも、寺は墓地の縁者を探している。墓を守る人がなく墓地使用料を納めていないというわけだ。生物はなぜ死ぬのか。死んだらどうなるのかが分かってしまっている現代に、もはや宗教は不要である。このことは司馬遼太郎の言葉であり、私も同感する。白洲次郎は葬式不用、戒名不用と遺言状を残した。作家開高健の墓にも戒名はない。
「親族であなたを知るのはせいぜい前後二代だ。あなたの両親と祖父母、あなたの子供と孫たち。それ以前はご先祖様、それ以降は遠い子孫だ。故人は生きている人の心の中で生きられる。だから一番の供養とは故人をいつも思い出すことなのだ」親友に私は追い討ちをかけた。
娘に婿養子を探しても、次代はどうなるのか。人は存在したことが忘れられてしまうことが怖くて、不安でいる。自分が死んでもお参りをしてもらいたいのだ。けれど徳川家の菩提寺として家康の母堂や千姫を埋葬する伝通院ほどの有名寺院でもこの有様だ。人の願望は無常な夢物語に過ぎないことを死者は語らずとも墓地は雄弁に語っている。
墓地は愛する人を失った人が心を癒すのために作られるのであって、死者のために作られるのではない。もっともいまの法律では遺骨を散布したり墓地以外に埋葬することは許されない。けれども仰々しい墓地など必要はない。これだけ死生観が変わればやがて墓地の扱いも法律が変わることによって変化をしていくだろう。
かくいう私も両親の墓地がある。墓掃除をしないと近隣の人に迷惑をかけるので年に一度は墓掃除に出かけるが、墓石を洗い、線香を燃やし、花を生けてお供えをすることがなぜ供養なのか、いつも疑問に思っている。私は両親のDNAで作られている。私は両親と同じなのだ。だから私はいつも両親と一緒にいる。長所も欠点も姿かたちもみな両親の体から分離してつくられたものだ。私は自分の才能を与えてくれた両親に感謝し、欠点を与えてくれた両親を反面教師として同じ轍を踏まないように注意している。このことを感じることが出来ればもうそれで十分だ。もし両親が元気で生きていたら私の生き様に最大の歓びを感じ取っているに違いないのだ。
やがて両親と私たちが眠る墓は無縁墓地となる。遺骨を後世の見ず知らずの人に委ねるのではなく、私が元気のうちに始末をつけ方策を考えなければならないとひそかに思う。私は娘たちにここに入るのならともかく、私たちの墓を守れなどという気はない。
ものがあるからいけないのである。ものがなければ問題は起きない。物体と心は正反対のように思うだろうが、ものの中にも心度合いが高いものがある。遺骨は物体であるが極めて心度(こころど)の高い物体である。だから人は物と見ず精神度の高いものとしてみる。
人は一代である。生まれて生きて死んでそれで完結するのだ。だから精一杯生きることだ。生まれる前のことも死後も関係ない。前後裁断してたったいまを生きていかなければならない。
墓地を歩いていてふとヘミングウエィの「誰がために鐘がなるか」を思い出した。この看板は誰のために立てたものではない。看板を見たものすべてに向けて立てた看板である。
私にとっての墓地は人間が死んだらどうなるかを正しく教えてくれる学びの場である。伝通院は仕事場から徒歩5分も掛からずにぶらりとたどり着けるので時折訪れる。ここには著名人の墓がたくさんある。過酷な拷問を受けても夫清河八郎の居場所を漏らさず獄死した阿連と、暗殺された清河八郎夫妻はいま、静かにここに眠っている。私は長い時間を瞬時に歩いて夫妻の死後を見ている。この右隣には作家の佐藤春夫が眠っている。私は瞬時にして佐藤春夫が死んだ後の世界に立っている。死者はいまを生きろと私に教えてくれる。私は死者から生きる勇気を与えられる。