学生のころ上り寝台列車の窓ごしに見た富士山は圧倒的に押し迫ってきて、私は富士山の威圧感に息を呑んだ。 確か九州を一回りする旅に出てその帰りであった。昭和39年は九州へ行くとなれば学生は寝台列車に乗れれば上等であった。それからかなりの回数、富士山を見たがあの威圧感はもうない。
私に覆いかぶさるように感じた威圧的な富士山の姿は一体何だったのだろう。いまだに不明だ。今日、私は12月2日の富士山を見た。富士山はもう白雪を頂いている。私は立て続けに新幹線の車窓からシャッターを切った。富岳三景ができた。絵葉書のような写真ができた。どこにも威圧感はない。
私はあの時、寝台車の下段で眠っていた。夜明けが近づいて私は目覚めて窓のカーテンを開いた。窓の外に大きなスクリーンがあってそこに張り付くように富士山が投影されていた。私はどこから何を見たのだろう。狭い空間からいきなり窓越しに雄大な富士山を見て脳がだまされたのだろうか。
私はこうして、とうに忘れていた昔の体験を思い出す。一体こんな体験がどこに記憶されているのか。なぜ44年後に思い出すのか。生きていることの不思議を思う。前に進み過ぎることを生体がブレーキをかけているのか。生体の叫びなのか。生体は教えてくれない。