知友の夫人は鬼嫁である。私が言うのではない。知友が堂々とブログ鬼嫁日記を書いているのだから間違いない。しかし「鬼嫁日記」とグーグルっても100万件以上も検索されるので私がこれから書く物語の主人公が誰なのか特定はできない。それだけ日本には鬼嫁が多いのだ。
何かあったのにちがいないと私は考えていた。どちらかが一方的に悪いということはないと高を括っていた。ところがこの鬼嫁はほとんど狂気であった。その激しさは単なる鬼のように強い嫁レベルではなく、3ステップくらい進んだ脳の異常によるものと私は感じた。まるで小説家島尾敏雄が書いた自伝小説「死の棘」に登場する精神に異常をきたした時の島尾ミホのようであった。そんなわけで知友が書くブログ鬼嫁日記は、誰にもいえない愚痴を吐き出す唯一の場であった。
鬼嫁が知友宛に書き送り届けたそうした手紙を何通か見せてもらった。母は爪を点すようにして貯めたお金を便箋に書いた手紙にクリップで留めて嫁に送った。可愛い孫に何か買ってあげてくださいと書いた善意の手紙であった。鬼嫁はお金をクリップで留めてあることをなじった。
何考えているの。バカじゃないの。お金をクリップで留めて送ってくるなんて常識では考えられないと。鬼嫁はこの言葉の100倍くらい幽鬼に迫った言葉を使ってそれはそれは長い手紙を書いて知友にぶつけている。私はその手紙を見せてもらって久しぶりに恐怖を体感した。昔テレビ画面から白装束の女が出てくる映画を観たときは、ひざから下に悪寒が走ったが、あの体験とほとんど似たものであった。
母は耐え抜いている。母に本当にすまないとその時知友は私に言った。私は知友に「死の棘」を贈呈した。交換するように知友から「死の棘日記」を贈ってもらった。
その母が末期がんであることは私も聴いて知っていた。本日、知友から母が亡くなったとメールが届いた。
母の死を迎えたいま、自分が耐え、結果として母にも見て見ない振りをして暗黙的な忍耐を強いたことに、さぞかし禍根を残していることであろうと私は推測している。愛する母に対する男の感情はそのようなものだ。知友は私の記憶では今年43歳。皆から好かれている人である。早く元気になって欲しいと願っている。知友のブログをコピペした。心根の優しい人であることが良く分かる切々とした思いを書き記している。
母の死
一昨日母が亡くなりました。
皆様から心配をしていただきまして、連絡が遅くなったことをお詫び申し上げます。
母が、私は見世物ではないし、質素にしてほしいと要望があり、母の言うとおりに密葬で行いました。今回、東京から帰らない日程でしたが、兄弟から連絡があり、ちょっと調子悪そうと言うことで、急遽帰るようにしました。
水曜日に電話したら、「ちょっときついけど大丈夫よ」と活舌もよく、私としては大丈夫だと思っていました。しかし、金曜日に妹がちょっと駄目かもと電話を変わってもらったら、もう喋れなくなっていました。
土曜日の朝一番で家に帰り、妹も子供の面倒を見て、PM7時に病院に行きました。
我慢をする母でしたが、少し苦しい顔をしていました。
私は、妹に「少し痛み止め打ってもらう?」「そうしたら死ぬのが早まるらしい」
この地点で、血圧が70・40でした。母に痛み止め打つか確認すると要らないと言う。
弟がやってきて、本日病院に泊まってもらうためです。
私は消灯の時に家に戻りました。
この2日間で異常に弱っていることが解ります。
翌日、朝起きたときに携帯を見たら着信はなく、会社でも行こうと準備して、娘に行って来ますと言って車に乗りました。
携帯を見ると着信があり、その着信が弟からでした。
電話すると、「もう駄目かも!」
私は急いで行くと、もう喋れる状況でもなくなっていた。
前日までは、話をするとうなづいたり出来たのですが、まったく出来ません。
今日、母の兄弟も呼んでいるのに間に合いそうにもない状況。
11時過ぎに、妹「目がキョロキョロして危ない感じ」
11時20分、先生が入ってきて血圧を測っている。
私は母を見ていると、すーと息が出てそのままじっとしている顔を見ていました。
11時24分、別の先生が来て、「死亡を確認しました」
この間に、「母さん、心配いらんよ。ゆっくりしていいよ。ありがとうね」と兄弟で叫んでいました。
私の姉さん(広島のお客さん)みたいな人からも笑顔で送ってあげなさいねと言われていました。
兄弟にそう言って、何とか笑おうとしていましたが無理無理。
兄弟で最後は泣きました。でも、それからが大変です。
葬儀屋さん探しなど、会社に連絡など、死んだことを受け入れる時間がありません。
父のときは母がしたのでわかりませんでしたが、坊さん頼むのも23万~35万。
戒名も20万。葬儀屋さんも90万。大変でした。
母の要望で、親族だけの密葬を行ないましたが、果たしてそれでよかったのか?
母は満足してくれたのか?疑問にも思います。
葬儀中に泣いていると娘が抱きしめてくれるし、息子が話をそらそうと一生懸命だし、いい子供達を持ちました。かみさんはバイトがあると来れませんでした。
今日から仕事していますが、まだ元気はありません。
これからじわっと来ることだと思いますが、何もしないよりいいかもしれません。
この葬儀屋は部屋にゴミは落ちているし、テレビもない。
古いし、サービスも悪い。トイレに紙もない。最悪なところを選んでしまった。
途中に帰ることが出来ないし、値引き交渉も出来ない。
結局、坊さんには20万にして、葬儀屋さんも70万で済みました。
戒名は、本当の寺(父のいる寺)のほうに作ってもらうことにしました。
思い起こせば、平成20年5月父が死に、平成20年12月母が末期がんと告げられ、余命3ヵ月と言われたときは、ショックで居酒屋で一人で泣いていました。
それから母と兄弟で、抗がん剤をせず、自然にやっていこうと、2点だけを行ないました。
ビタミン治療とフコイダン(健康食品)。
もう一つありました。わたしたち兄弟で支えていく。
殆どが弟と妹にしてもらいました。いい兄弟を持ちました。
平成21年2月に母の兄弟を呼んで、食事会をしました。
平成21年3月に母と鹿児島に最後の実家へ。
平成21年8月弟達が再び鹿児島へ。兄弟親戚と最後のお別れ。
平成21年12月緊急入院。ただ、病院の対応が悪く早期退院。
この病院はうんこもらしたら自分でウォッシュレットでしなさいと怒られたり、適当にされたりで大変でした。後で聞いたら福岡では比較的に有名な悪い病院らしい。
平成21年12月30日私と娘が見舞いに行った。この日は元気で病院の先生も、1月4日まで休みなので、5日に退院しましょうとまで言ってました。
平成21年12月31日子供達と見舞いに行ったら、ぜんぜん元気でした。
平成22年1月1日家族で見舞いに行ったら、この日も平気でした。
平成22年1月4日私が翌日から出張なので見舞ったら、大丈夫でした。
平成22年1月6日夜お酒飲んで寂しかったので母に電話しました。
30分くらい平気で喋ってくれて、冗談で死んだら俺を助けてよって言いました。
平成22年1月7日この日から悪くなったみたいです。
母は、強い人間で、鹿児島から見合で一人北九州の小倉にやってきました。
私の父とここから生活のスタートです。
部屋も元牛小屋を改装して、出来た部屋なので1DK的?でした。
私が生まれたときは周りも貧乏な時代でしたが、私のところは、それよりもう少し貧乏でした。
お風呂がなく、紙もなく(トイレは近所の新聞紙をくしゃくしゃにして使う)、何もない。
周りが誕生日パーティをしていたのに私は何もない。食事は質素。
それがいやで家を飛び出たこともありました。
市営団地が当り、びっくりです。小学3年生の時でした。
一気に部屋が2つ増えました。
このころから少し生活が良くなってきました。
それでも、洋服は近所のお下がりで、食事は質素なものでした。
食べ盛りだとおばあちゃんが鹿児島からお米だけは送ってくれて、何とか4人の子供を養ってくれました。うち一人は死にましたが。
何か親孝行したのか?これからしようという時に本当に親がいない。
これで両親ともいなくなりましたが、私達兄弟に親は必要ないと神様が決めたのでしょう。
長男ですので、兄弟と子供達を守っていかなくてはなりません。
これからもがんばっていきます。
しかし、当分母の死を受け入れられません。