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今日はiPadを購入に出かけただけで後は自宅で過ごした。私の仕事の基礎になる考え方は磨きに磨き、原理原則にたどり着いている。原理原則を持つことは大切である。いつでもここに戻れる。いつでも応用ができる。誤りやうそがすぐに見えてくる。どう誤るかも見えてくる。私は原理原則を持つことの大切さを感じている。これまで出逢った多くの人々から私は原理原則の必要性を学んだ。彼らは私に原理原則が大切であることを教えてくれた。それがいまになって腑に落ちた。
新しい会社が掲げている事業は私がこれまで歩んだ道の集大成である。したがって実に奥深い。ここには私にとっては全宇宙に匹敵するほどの要素が入っている。
マスマーケティングとワントウワンマーケティング、右脳と左脳、企業と顧客、販売と関係性、情と理、顧客の価値実現と企業の価値実現、暗黙知と形式知、プロセス論と精神論・・・・これを書き始めたら限りがなくなる。
これら相反するものを統合した先に共生社会が生まれる。新しい事業は顧客との対話を通じて関係性を深め、営業プロセスを進めることができるリレーションシップ計画と実践であり、それらはクロスメディアを駆使して実現するものである。この実現には原理原則ともいえる理論が必要である。いま、この事業がこれまでの集大成であることに気づいたのである。
私はなぜいまここにいるのかを家にいて考えた。ここにいるとは家にいることではなく人生のことである。振り返るとここにいるターニングポイントが幾つもあった。ターニングポイントとは人生航路における三叉路のことである。この分岐点で私はどちらかの道を選択した。いや、分岐だけではない。運命の手で三叉路が作られたこともあったが、私の選択の多くはこれまでの道を捨てて新しい道を選んだことによる。
その新しい道は私にとってはすべてが創造の道であった。そして動き出したもう一つの会社も前人未踏の新しい道である。ここで私は再び原理原則が大切であることを認識する。新しい事業は原理原則に沿って構築されているからだ。
人間は原理原則を持つと自信を持てる。自分自身がちょっとやそっとのことではぶれなくなる。時代の変化に恐れることがなくなる。原理原則は普遍だからだ。
私はこれまでターニングポイントで出会った人たちこそが私の人生に大きな影響を与えてきた人たちと思ったけれど、気づくと原理原則が一番大事なことと教えてくれた人の存在を忘れていた。彼らこそが普遍を教えてくれた人であった。時代が変わっても、創造的な仕事を追加しても、何一つ困らずに対応できる生き方を教えてくれた人であった。そのおかげで私は困難でもへこたれることなく前に進むことができている。人生航路には線路切り替えポイントの役割を果たす人と、生き方の指針を与えてくれる人がいる。感受性を磨けば誰もがそのような出会いを経験していることに気付くはずである。
時代が変化すれば人々の価値観を変えるけれど原理原則は普遍である。Principleは変わらずPrincipleに添って価値観が変わるだけなのである。
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ヘンリーミラー夫人であったホキ徳田がヘンリーミラー没後30年を記念してピアノBAR「北回帰線」を六本木に開いたことは本人からの連絡で知っていたが忙しくて時間がとれず、訪問したのは開店してから1ヶ月も過ぎたあとであった。訪問時間が遅かったこともあって顧客がいない店内で3人のスタッフとホキが迎えてくれた。店長はホキを仕事の面で支えている佐藤君であった。
ホキと出逢ったのは23歳のとき。画家の鶴岡政男さんらに連れられて行った新橋のエキゾッカでピアノを弾いていたのがホキであった。ホキはテレビ創世記のスターであった。ハマクラさんが作ったコーラスグループ、スリーバブルスの一員でもあった。ホキはカナダの音楽学院でクラッシックを演奏するピアノ科で学んでいた音楽のプロであった。テレビ創世記に大活躍し、その後にハリウッドのオーディションを受けて合格。舞台をアメリカに移し活躍していたが、文豪ヘンリーミラーに見初められて、夫人となって約12年を暮らす。
この辺のいきさつはホキからいろいろと面白い話を聴いているので、またホキの話題になった時に本人の許しを得た上で書いてみよう。帰国したホキが麻布でピアノBARを経営しているときに再会。いまから15年ほど前のことである。以降、友人として交流をしているわけだが、私が23歳からのつきあいであるので、妙に親しい関係が続いている。馬が合うのだろうと思う。
ヘンリーミラーの代表作を店の名にした北回帰線は、思ったより広く、ピアノBARというよりクラブに近かった。ホキは私にピアノを見てあげるから何かを弾いてみてと突然に言った。私は陽水の招待状のないショーとシェルブールの雨傘の二曲を弾いた。ホキはそれだけ弾けるのだから右手のメロディをもっとしっかりと大切に弾くこと。右手のおかずは考えなくてよい。次第にできるようになる。それができれば左手はひとりでに付いてくる。それから真ん中のぺタルを上手に使うこと。とアドバイスをくれた。おかずとは主メロディーを装飾するテクニックのことである。
言われた通りに弾くと、ホキは、ほら!前より巧く聞こえるようになった!といって、今度は自分がピアノに向かって、私の演奏方法と、自分の演奏方法を比べて弾いた。さらにペタルの効果を実際に教えてくれた。
この様子を見ていた店長の佐藤君が、ホキがこんな風にピアノを教えたことは今までない。はじめてみた。と驚いた。私は顧客がほかにいなかったお陰でピアノの名手から手ほどきを受けることができた。忙中閑雅のひと時であった。
投稿情報: 13:11 | 個別ページ
すし匠の看板は名優本木雅弘の手になる。彼は一時期、書道家で身を立てようと考えたくらいに筆が立った。アカデミー賞を取ったおくりびとはまるで茶道のお手前をみているようであったが、この書を見ればさもあらんと納得をする。私は彼の演技にぞっこん惚れていて、似たような顔立ちの市川雷蔵を凌駕し、末は滝沢修に迫るとみている。
さて、すし匠は四谷の駅近くにあってこじんまりとした江戸前を握る名店である。私はこの店に通いだしてから約18年が経つ。当時の事務所が近くになったことをきっかけにした。高校を卒業した長女が英国に行く前に寿司が食べたいとの願いで家族で初めて行ってから、指折りかぞえると約18年になる計算だ。
親方の中沢さんは無類の勉強家である。そして原理原則に基づいた本物だけを選択する。まやかしは何一つない。魚も酒もすべて太い筋が一本通っている。すべて理で説明しその通りに美味しいから信頼関係ができる。中沢さんは日本中を食べ歩く。そして旨い魚を見つけると現地から直送してもらう。
こうして年々すしも魚も酒も旨くなって、いまや東京で江戸前を代表する名店になっている。私は他の名高い名店の味をも知っているが、素材のよさと江戸前の仕事振り、そして適切に選択された酒の組み合わせはどこよりも絶品と確信している。
そんなわけで私とは気が合って、以前私が書いた「脱・片思いマーケティング・・日経BP社・・には実名で登場した位だ。
この日は初夏の三寿司を食べた。新秋刀魚、やりイカの子供、新子である。どれも初物である。写真は新秋刀魚。よく切れる包丁で気持ちよいほどに二つに開いている。
上はのどぐろの焼き物。のどぐろは私が若い頃から好んで食べた魚である。新潟に出張すると帰路に必ず市場でこの魚を発泡スチロールの箱に詰めて持ち帰ったものだ。のどぐろは刺身でもいけるが焼いて本来の旨さを引き出すことができる。当時でも20センチくらいの、のどぐろが3000円くらいしたから昔から高級魚であった。とまあ、ここで魚の薀蓄を語りだすと切りがなくなるので止める。
すし匠のすしを食べるといつでも本物に触れた満足感に浸る。日本食文化が侵されている。日本は回転すし屋が定着しているがそれはそれでよい。問題は街中にある普通のすし屋だ。職人のプライドは高くても、すし匠のように常に顧客が何を望んでいるかを追究していないとこれから淘汰されていくだろう。コモディテイ化が進み、安い店はますます安さを競い、高級店はより顧客価値の創造に努力する。中途半端ではもはや生きられない時代である。
これからはより高度な専門性と、それによる価値の創造と、それを情理を尽くして顧客に伝えられる関係性が求められる。中沢さんはそのすべてを実現している。だからこの店はいつでも繁盛して予約もままならないほどだ。
好店三年客を変えず、好客三年店を変えずという言葉があるが、私は18年近くもすし匠を変えずにいて、思い出したようにして中沢さんに会いに、そしてすし匠のすしを食べに行く。
投稿情報: 11:43 | 個別ページ
最近まで「ドライアイ」が進んで真夏の日差しはミルクをかぶせたように白一色に見えていた。最悪の時はクルマのウインドーが白ペンキで塗られたようになって外が見えなかった。パソコンに終日向かっていたがためにまばたき回数が減って目が乾燥した結果である。かなり重度に進行していた。これを解消するためにサングラスは、伊達めがねでもファッションめがねでもなく、明るい日差しの中を生きていくための必需品であった。それが室内に入ると一気に改善して正常化したから不思議であった。
気がつくと夜でも同じであった。周辺は暗闇に融け、闇と物の境目が分からなかった。夜の運転は命がけであった。100キロで走る高速道路で、トンネルの中では壁とクルマの境目が闇に包まれてぼやけて見えた。そのために私はクルマのサイズを小さくした。幅が6センチも狭いクルマを選択したのはこのような事情であった。
思い余って医師に相談するとドライアイを修復する点眼薬の処方箋を書いてくれた。強い日差しの下ではサングラスをかけるのが有効でしょうとアドバイスを受けた。夜の運転は避けたほうが良いでしょうと付け加えた。
点眼薬を欠かさず使用したおかげで、真夏の強い日差しでも道路からビルまで可視化できる都市の風景が、絞りを開放のままにして写した写真のように白く飛んでしまうことはなくなった。目の絞り機能は正常に戻った。いまはサングラスを手放して歩いているがまったく不自由はない。それにつれて暗闇の境目は見えるようになっていた。絞り機能が壊れてもサングラスをかければ解決すると、いつもの問題を問題としないで乗り切る持ち前の楽観思想が、ここでも幸いした。
思い返すと見える全域が白化した時は白昼夢をみている錯覚であった。特に前日お酒をしたたかに飲んだ翌日などは、脳全体が白化しているので昨日のことが事実であったのか、夢であったのかが、白化して見えている私の脳のなかで重なって混乱する時があった。目は脳の一部である。灼熱の強い日差しの中で見えているものは事実と違っていても、事実として判断する脳。これはいま思えば不思議な体験であった。
釈迦が弟子の舎利子に、世の中で役に立たないものを探して来いと命令をする。舎利子は旅に出るがやがて戻って役に立たないものはありませんでしたと報告をする。次に釈迦は、舎利子よ。それでは役に立つものを探して来いと命令をする。舎利子は即座に足元にあった小さな石を拾い、釈迦に差し出す。
この仏話が、私の例え話を言い表すものであるかは正当化できない。けれどもこんな不思議な体験でも、また心を悩ますような体験でも喉元を過ぎてしまえば、「不思議な体験をした」の一言で済んでしまう。
喉元を過ぎるとは二つの意味がある。一つは過去形になった時、二つは波乱を乗り越えた時である。現象はいまも続いているが波乱を乗り越えれば、その波乱を事実と受け止めて心静かに暮らせるようになる。
例えば音楽家の浜口倉之助さんは病気で声帯を失った。音楽家で声帯を失った人は少なからずいる。心は波乱であったに違いない。声帯を失ってどこに心静かに暮らす音楽家がいるだろうか。しかし晩年にハマクラさんは、心静かに暮らしたそうである。
私はどんなことでも良い体験をしたと認識をする。何があってもすべて良くなると認識をする。どのような体験でも役に立たないことはないのだ。その体験が自分にとって波乱のことであっても、耐えて、ためて、乗り越えていければやがて、波乱は光と化し、心のどこかに小さな花を咲かせることができる。
人間は部品でできている。部品は壊れる。事故で壊れることも、磨耗で壊れることも、病気で壊れることもある。生きている途中に心が傷ついて壊れることもある。誰かが言っていた。人間は死ぬことに備えて毎日を体験していると。私もそうではないかと思う時がある。
過去に失ったモノやことを哀しむのか、見えない未来を不安として生きていくのか、過ごす日々を好日として生きていくのか。それで生きる毎日が変わってくる。すべては心が決める。波乱か平常かは人によって受け止め方、感じ方が異なる。
心静かに生きるとは、時に波乱と感じたことに翻弄されて揺れ動く自分の心を見つめながら、耐えて心にためて、乗り越えて、事実を事実を受け止めながらも、やがて心を鍛えて前に進むことにほかならない。
今日は三連休の三日目。資料を作るために仕事をしている。今週はハードスケジュールが待ち構えている。朝から気温がみるみる上昇し目が眩むような日差しの中で、目の機能を回復してくれたわが肉体のがんばりを慈しみながらこんな白昼夢をみた次第である。
投稿情報: 13:30 | 個別ページ
三連休が始まったが、私は出社して仕事をしている。新会社が行なう提案書作成の仕事が山積みになって残っているからだ。いまの時代は原則的に一回しか真摯に話を聴いてもらえるチャンスはないと思わなければいけない。だから一度の出会いに集中した話をしていかなければならない。
私は心静かにして時間をすごしている。毎晩遅くまで仕事をして、時に人と会って食事をして酒を飲んでいるから実際の時間はタイトである。時に連続して夜中の12時過ぎまで仕事をすることがある。あるときは連続して会食がある。時に一日3回もの提案で企業を訪問することもある。さらにメールマガジンを書き、メールに返信し、クライアント企業にコンサルティングの仕事で出かけている。企業との提携業務に時間を割き、片方でいろいろな相談ごとを持ちかけられている。講演会、セミナー画あり、勉強会の会合がある。実に慌しいはすなのだが、心は平らで静かである。ようやく、平凡に日々を暮らしていく生活ができるようになったのか。私の一日に余分な心の動きが削がれてきたのか。最近はシンプルな生き方をしていると思う。
鮭は川で生まれ海で育ち、川に戻って子孫を残し、川で死に、身は川に還る。そして溶けたミネラルは川を育て、川辺を育て、森を育てる。森で生まれた生き物は森で育ち、森で子孫を残し、森で死に、土に還る。還った身はミネラルになり、植物を育て、森を育て、川に流れ、川を育て、川の生き物を育て、海に流れ、海の生き物を育てる。
私にとって子育てはとうに終わっているから、私が鮭ならもうはるか昔に川へ還っているはずである。しかし私は子孫を残し育てた後にも自然に還らずこうして生きている。
だから私は物欲しげな仕事をしないように心がけたいと思っている。自分が確信を持ってつくり上げた仕事が力強く真実を照らし、顧客から支持されるような仕事をしたいと願っていることの裏返しである。その確信が私自身を支えている。
理屈をつければなんとでも思える。ようするに一つの仕事をやり続けてきて、67歳を越してようやく自分の立ち位置と、残された脳の健康時間があまり長くないことを、だからこそ無駄なく何をやればよいのかの道筋が、言い換えれば自分の心をどこに配分すればよいかが見えてきただけのことである。
人はこうした心境を円熟というけれど、かかる意味では私はまだ半熟である。知れば知るほどに知らないことが増えてくる。その気になれば死ぬまで人間は成長できる。ここが鮭と人間の違いである。子を育て終えても人間に生きる価値があるのは人間は哲学出来るからだ。
軽井沢は毎日のように激しい雨が降っていたようだが、今日、九州から甲信越までの広域で梅雨明け宣言があった。ネットで軽井沢の天気を調べたら、晴れマークが続いている。この雨が緑を一層深くしたことであろう。あの大紅葉はいったいどうしたろうか。
これから1ヶ月あまり清々しい高原の夏が続いて、8月の終わりには朝晩は薪ストーブをくべるほど気温が下がる。多忙な間にふと軽井沢に思いがはせることがあるが、余分な心の動きではない。まるで鮭が自然と川へ遡流するように、私が軽井沢を思い浮かべる時は、いつでも心静かだからだ。
投稿情報: 16:10 | 個別ページ
7月11日までで智恵子抄は終了した。その直前に私は思い立ったように親しくさせていただいている、さる大企業の取締役をお誘いして、最後になる智恵子抄美術展を観に行った。マチスほどに昇華された智恵子の切り絵を観るチャンスは二度と回ってこないと思っていた。
智恵子抄は私にとって青春そのものである。だから光太郎の言葉を借りるならば詩の一つひとつを「意味深く覚えていて」ということになる。それから50年が経過して、風雪は時間を晒してしまったけれど、私にとっての青春は昨日のことのように鮮やかである。それが智恵子抄の一節を読むたびに甦ってくる。
この美術館を訪れた人たちは誰もがそうである。姿かたちはとうに青春を留めてはいないけれど、心の中は永遠なる青春に立ち戻っている。美術館に出品されている光太郎の彫刻、智恵子の切り絵、智恵子抄の原稿を並べた陳列台を巡り歩むごとに、やがて顔は活き活きとして、古い出来事を懐かしみ、思い出を噛みしめていることが、眺めている私にも伝わってくる。智恵子抄が青春そのものである人の群れがここに集まっている。
こうした心のひだに残る思い出を誰もが持っている。だから人はいくつまでも美しいのである。思いをすべて叶えてしまったら、人生はむなしいに違いない。
私は美術館の人に菊池寛は分かるけれど、後ろに付く実とは何ですかと質問をした。すると菊池寛実は大実業家です。作家とは関係ございません。智とはお嬢様のお名前をとったもので、お嬢様はもう八十歳を越えています。と説明を受けた。ここにも娘の名前を美術館名に残す心のひだに残る一つの物語があった。
今日、「旅の寄り道で智恵子抄展を知り、一人で観に行きました。私は智恵子抄が大好きで智恵子の生家も行きました」。と知人からメールをいただいた。知人も智恵子抄に青春の思い出を秘めているに違いないと感じ取った。私はそのメールに応えるべく二度目に行った折に撮影した何枚かの写真を使ってこのブログを認めた。
参観者のだれもが智恵子抄にかぶせた思い出を持っている。智恵子抄美術展を観に来たのではなく、自分の心に咲いている想いの花を確かめに来たのだと、たった今、そう思った。
新規事業が市場から歓迎されている。私のスケジュール表は見る見るうちに先の先まで黒く埋まっていく。私は事業を始めた当時を思い出している。あの時もそうであった。私は毎日東京駅か羽田へ出勤していた。そこから乗る新幹線や飛行機の、到着先が仕事場であった。いまの過密スケジュールは当時と似ている。しかし、違う点は大企業に訪問し初めてお目にかかるご担当に提案することだ。いまは一回で善し悪しが決まってしまう。当然一回の出会いに集中しなければならない。
先の週末は休息日であった。土曜日は親しくさせていただいている画伯の家に出かけた。画伯が主宰する会の運営を巡って打ち合わせをすることが目的であった。しかしその打ち合わせは正味15分ほどで終わった。あとの6時間は対談であった。夕方になって画伯の運転で駅前のスーパーに行って夕食を買い揃え、二人で向かい合ってそれを食べた。
画伯は私にとって人生の師である。23歳の時に初めて出会った。私は覚えているが師は覚えているはずがない。今の時代のようにメディアが限られたいた時代に師は時代の先端にいた。常に名高い流行作家と宴に興じ私は遠くからそれを眺めていた貧しい一青年に過ぎなかった。
二十年後に再会した。私が独立したての時であった。こんどの再会は三回目に当たる。もう師と別れることはない。初めの出会いは遠くから見つめる関係であった。二度目の出会いは子弟の関係であった。三回目の再会では子弟の関係は変わらないにしても、67年間に及んだ人生が私を育ててくれたおかげで対話は弾んだ。
一人の画家に話が及んだ。たまたま師の机に合った美術書にその作家の絵が掲載されていたからである。この作家の名は私もよく知っていてオークションで幾度も追いかけたことがあったが最後に気乗りがしなくて止めた人である。
師は絵を見て、すぐに「この絵は物欲しげだ」と言った。私はこの画家について持てる知識を話した。師は私の話は聴かないで、「物欲しげな絵はその臭いが出ていてね」と言った。この絵は壁に飾るような絵ではなかった。むしろ着飾る女性の醜さを表現したものであった。けれども師は止めを刺した。「どのように表現をしても臭いが残る」。
師の寝る時間に差し掛かっていた。私はお暇をして帰路に着いた。腹に染みる休息日であった。
投稿情報: 08:12 | 個別ページ
朝、長女から「ちかぢか軽井沢へ行く予定はないの」と電話が入った。「自然の中に入りたいの」と電話口で言った。「それならいまから行こう」と私は応えた。私はヤマボウシの花が見たいと思っていた。
軽井沢の森に着くと鳥が鳴いている。雨上がりで湿気を多く含んだ空気が鳥の声を響かせている。長女は思いきり大きな深呼吸をしてからふと足元に目をやると小さな緑色の尺取虫が目に入った。娘は尺取り虫を指先に乗せると「かわいそうに!固まっている」。とつぶやいて、「ここにいると踏まれるから別の場所に移そうね」と声を掛けてとまっていたと同じ雑草を探して安全な場所に移し変えた。居た雑草が食草と思ったのであろう。
ヤマボウシを愛でるには季節が進みすぎている。7月ともなれば多くはヤマボウシはみずきに似た花を落としているが季節を遅れて咲く花があるようにこのヤマボウシの樹はまだ花をつけていた。遠くから見ると山に帽子をかぶせているように見えるのでヤマボウシの名がついたと・・いうのは私の作り話で漢字で書くと山法師が正しい。
英国の大学で生物や環境を学んで帰国した長女は、動物や植物を見て英語では名前が分かるけれど日本語では分からないと言っていた。
尺取虫は蛾の幼虫である。小さな幼虫であったから小さな蛾になる。尺取虫は枝の一部分に化けることが出来る。自分の身を守る擬態である。固まっているとは人間に掴まれてあわてて擬態を演じている。
このような虫にも一個の生命が宿っている。生命とは生きる力の原動力そのものである。生命を宿す小さな昆虫に、それが強力な毒やかゆみをもっているものでない限り、人は恐怖や嫌悪を抱くことはない。
娘の虫を愛でるDNAは、私が母から受け継いだものである。採集して箱にしまっていた越冬中のオオムラサキの幼虫が春になって天井に昇って食草を探して這いずり回っている姿を見て、母はこのままだと虫が死んでしまう。かわいそうだから早く元の森に戻そう!と、電車に乗って中学1年生の私の手を引いて紙袋に戻したひしめく幼虫を狭山の榎(えのき)の森に返したのであった。
あれから50数年が過ぎたけれど、こうして娘のしぐさを見ていると母のDNAが私を経由して娘に引き継がれていることを静かに想う。
私は軽井沢の森を動画で映した。大紅葉も健在であった。
投稿情報: 13:44 | 個別ページ