法務省は刑場をメディアに公開した。私は公開写真と死に至る儀式をテレビを見ながら、刑場に送られる人間が死に至る儀式を通過しないと死ねないことこそが最大の残忍な刑罰だと思った。死に至る儀式とはいつとも分からない刑場に送られる日を待つことと、今日執行すると決まってから死の直前までの儀式のことである。
法務大臣は死刑反対論者であったが二人の死刑囚を刑場に送る死刑執行命令書を出し、自らも死刑執行に立ち会った。そして刑場を公開して死刑論議をするように願った。
日本民族は根強い死刑支持論者の集まりである。被害者の遺族は極刑を望む。
日本には江戸時代から仇を討つ風習があった。武家の主が殺されると家督は没収されるので、息子は家督を継ぐために仇を討つ願いを出して決められた期限内に仇を探して果し合いをし仇を殺すことによって家督は継げるようになる。現代は被害者の遺族が自分で加害者を殺せば罪に問われる。免罪符はない。だから法律に仇を討つことを求める。これが死刑支持の本質だ。
ネットで仇を討つとでも検索するなら、身内を殺されたら自分が犯人を殺したい。安楽死など絶対に許さない。苦しみ抜いて死ねばよいという過激な発言が並んでいる。もう一つ、白黒をはっきりつけて勧善懲悪の思想も根強い情念としてある。この民族は根っこの部分で情念を持っている。
死刑は裁判で死刑が確定した加害者を社会から消し去ることが目的の刑だ。ならばなぜ死に至る儀式を通過しなければならないのか。私はそのことを考えていた。
殺すことが目的なら長く死に至る儀式に耐えさせないで安楽死をと思う。日本の死刑制度は国際的にも人権問題で相当に批判を受けている。死刑があるだけでなく、長期間、いつ宣告されるか分からない死刑の恐怖に晒したまま死刑囚を待機させている点が批判の対象なのである。
懺悔をさせて悔い改めさせて刑場に送ること、この儀式は宗教的なものである。死刑が確定した囚人に刑場の宗教家は犯した罪を見つめろという。自分がいかに悪いことをしてきたかを懺悔をして、死刑に臨めという。死刑がない国では死刑に相当するほどの悪いことをしたのだから、懺悔をして死刑に臨めとは言わない。日本の刑場宗教家は真実の宗教家なのか。それとも法務省お抱え似非宗教家なのか。そこが解せない。
日本人は敵を憎しみの対象として絶対に許さない民族なのだ。それは村八分制度にもつながり、集落を守り自らの身を守ることにもつながっている。それは日本が島国であることに由来している。だから法務大臣が議論をしろと言っても日本は死刑制度を否認し国民運動が起きて死刑が廃止にすることはできないと確信する。
もしも国際的に死刑廃止を半ば強制的に求められ、受諾しなければならなくなったとしたら日本人は恩赦が適用されない終身刑、つまりは何があっても絶対死ぬまで収監する刑の立法を引き換えにするだろう。もうその声は死刑廃止論者から出ている。どちらが残忍なのか私には分からない。以上が私がテレビを見ながら自問自答した死刑論議である。