人は誰も何かに掴まってしまっている。ある人は過去に掴まって動けない。この若者は未来に掴まっている。そして心を縛られている。
むかし採用の面接をしたことがある。君は海外に言ったことはあるの?
私の問いに27歳の若者は[ありませんよ!!]と、反論するかのように答えた。私は悪い質問をしたのかと考えたがそうではなかった。あまりの剣幕に驚いた私はなぜと聴いた。若者は僕は結婚もしなければならないし、子供を育てなければならないからですと答えた。私はびっくり仰天した。それと海外旅行とどんな関係があるのか皆目分からなかった。彼は将来に掴まっていた。
今回の若者は将来が不安で仕方がないと言った。今まで生きた分を未来に伸ばすと70歳になると言った。私はこのままでいいのか人生が分からなくなって不安に明け暮れているといった。そこでこの不況に、恵まれた収入を捨てて一人で海外旅行をして自分探しをしてくるといった。
私は学生時代にもよく旅をした。旅の結論はどこに行っても人は働いていることの認識を得たことであった。人間は何があっても前に進まなければならない存在だ。そのためには普通の人は〈生涯遊んで暮らせるだけの資産を持っていない人は)生きるために働かなければいけない。あるいはどんな苦労があってもこの仕事はやり続けたい、やり遂げたいと考える人が、やり遂げるために働く。
私は相談を受けた若者に、「若いからな。どこでも好きな場所を見ておくのはよいと思うよ」と語って、彼の言葉から年齢が35歳であることを知った。
子供を持った母親は、いまを生きている。将来が不安であっても子供を育てるために一所懸命だ。ましてや経済的に不安定なら母親は夢中で生きて、夢中で働き、夢中で子供を育てる。女性が強いのは今を生きているからである。
若者に私は「ねぐらに帰る鳥は明日のことを思い煩らんで(わずらんで)いない」と太宰治の言葉を引用した。しかし言っても無駄な話だった。
かく言う私はモノについて考えている。知り合った画商は長谷川利行の絵をたくさん集めた。しかし売ろうとすると二束三文でしか売れないと言葉を投げ捨てた。
私はモノ持ちではないが、趣味で集めたマニア垂涎の腕時計が幾本かある。その時計をみた子供たちはすぐにそんな時計は欲しいとは思わないといった。メンテナンス料が高くて持つことがバカバカしいというのだ。私は子供の言葉を聴いてモノは自分が楽しんで自分で償却をするべきだと考えた。消却でも焼却でもなく償却だ。毎年費用化し、手元にあるのは残存価値であると考えるのだ。
衣食住に関しないモノは要らないという人は増えている。死んだ老人が遺したあらゆるモノを廃棄処分する業者のテレビ放送を見ていた知友は、もう生きるうえで必要がないモノは買わないと宣言した。
歳相応に考えることはあるものだ。35歳の若者は職を捨てて自分探しの旅に出かけた。その倍ほど生きている歳の人たちは身の周りからモノを捨て始めている。
私も、実は大部分のモノを捨ててしまっている。残したモノはわずかで、自分の手の中でハンドリングできる範疇のモノだけである。残したモノ。それはいうまでもなく私がいま行なっている仕事そのものだ。
若者よ。自分探しの旅をしても自分など見つからないのだ。自分は旅先に存在するものではない。あなたこそが自分なのだ。あなたはいつもあなたと一緒にいる。あなたは一歩一歩確実に前に進むことだ。現場に立ってがむしゃらに経験をすることだ。
やがてあなたがいままで生きたくらい生きると、自分が何であるか、そして何を残し何を捨てたらよいかがわかってくる。ようやく自分がなんであるかがおぼろげにわかるようになる。
私はいま思う。モノはそれを理解する人に引き継いでもらうことだ。お金に換えたって二束三文にしかならない。棄てることは大切にしていた自分の心を棄てることだから。