軽井沢では氷点下8度くらいの日が続いている。森に住む鳥は食べ物もそして何よりも水がなくなる。友からの便りだと庭に置いた水鉢にたくさんの鳥が集まるというのだが、中の水は氷点下で、底までかちんかちんに凍り付いて鳥は水を飲むことができない。どこで水を飲むのだろう、水がなければ鳥は生きることができない。しかし軽井沢全部が凍り付いている。私にはどうすることもできないと文を綴っている。
庭に積んである薪にアカゲラが飛んできて突付くと言う。乾燥しきった薪に啄木鳥の餌はない。どこで餌を口にするのだろう。友は文を綴っている。
私の家では1年に一回庭師が入って木の養生をする。私は冬を迎え餌がなくなる野鳥のために庭に生ったたくさんの柿を残してある。ところが庭師は梯子を架けて柿木に残しておいた柿を食べたらしい。そしてあまりにも美味しいので、全部をもぎ取って我が家に残して帰った。
庭師に悪意はまったくない。怒ってもしょうがないことだが、私は早くから会社へ出て執筆をしていた。柿木に残した柿は野鳥のためだと伝えることをしなかった。
私が鳥へのささやかな贈り物として残した柿は、私の想いが壊れた象徴として我が家の食卓にも、ベランダの軒下にも、山のように積まれていた。
そんな矢先に友の便りがあったものだからふたたび怒りが湧いてきて、と言ってやるせない怒りをぶつけるところもなく、誰れにも言えず、執筆に専念するしかなかった。
かつて軽井沢で友の庭先に一羽の幼鳥が羽根をばたつかせていた。羽根は成鳥の色形をしていたがまだ飛ぶことができなかった。巣から落下したものだろう。
私は何とか助けることはできないかと友に請うように声を掛けたが、友は私に一瞥さえしなかった。そして言った。「うちの庭にはたくさんのジムグリが棲んでいるから蛇の食料になるでしょう。自然は厳しい。食うか食われるかどちらか」
ジムグリは名のとおり地面下にもぐっている蛇の一種で軽井沢の林に多く棲む。幼蛇はどぎついオレンジ色で一瞬ギクッとした印象を与えるが地面にもぐりやすい頭の形をしている。とても穏やかな性格を持った蛇で、シマヘビのような攻撃性はない。私が出会ったときは動かないで死んだふりをしていたくらいだ。こわかったのだろう。きっと。
気が付かなければそれで何事もなく済んでしまうことが、なまじ心を寄せたばかりに心を痛めることが世の中には満ちている。
軽井沢に住む友は東京から移住したのだがあらゆる生き物の命を大切にし、地中に棲むジムグリさえも可愛いと思う性格だから、自然は厳しいと言い放つ心境になるまで、相当に哀しい思いをしたのだろう。だから氷の世界で水を求めている小鳥達に心を寄せてどこかで飲んで欲しいと、祈りを捧げている。
友は言う。住んでみるとわかることだが、祈るしか他に方法がないことがたくさんある。猿も猪も鳥も狸も狐も、人間のような高度な文明を持たない生物はみな氷点下の冬にわが身を晒して耐えている。私たち人間は薪ストーブを焚いて炎を見つめて生きていられるが自然は厳しい。自然の中で暮らす動物の命を、人間は守ることなどできない。命に関心を寄せる人はただ祈ることしかできないと。
執筆は100枚を100%とすると81%になった。残りは19枚。今日はこれまで書いたものを印刷して家に持ち帰り明日から正月三日間を校正日に宛てる予定だ。
いまは出版社も編集会議、営業会議に掛けてでしか書籍にできないから、その間十分に余裕があるのでまずは100%を書き切ることが1月10日までの目標である。
文明は自然を克服するために人類が考え出したものだ。文明は自然を破壊し、自然を破壊することで文明は発展し、自然を破壊したことで人類も文明も滅びる。
自然を敬う心を軽井沢の友は持っている。私にはまだ、ない。だから私はまだ、小鳥の命を何とか救えないかと請うなど、甘い。
友は他の命を養うことができるから落下した鳥には死ぬ価値があると言い放つ。野垂れ死にをしたとしても菌類が鳥を腐食させて他の小動物や、植物の命に生まれ変わるから、死に価値があると言い放つ。
友は若くして釈迦の境地にある。私と言えば・・・・・・・。