かつて私は仕事でスイスに出かけ首都ベルンの石畳を歩いた。冑に身を固めた騎士が馬に乗って登場してもおかしくない中世期の街並みの、人に歩かれたことによって磨り減った石畳を歩いた。
私が時間の傍観者になって、この街並みに佇んでいたら、この石畳の上を歩いた人々の横顔が次々と私の目に映るだろう。
私たちは時間の傍観者であるが、私たちが見ることができる時間とは自分の生きている間のことだから1世紀にわたって連続的に石畳の上を歩いた人々の姿を見ることはできない。
私は両親が歩いた道を知っている。確かにこの道を歩いたのだが歩いた人はもういない。足跡も残っていない。確かに歩いたのだから、同じ道を歩けば、かつて両親が歩いたと同じ場所を踏んで歩いているはずだ。
私は誰かとどこかへ行ったという静的な思い出は残らない。あの時、木橋の欄干のここを触って渡ったという動的な動きが残る。
この想いは空間的存在と時間的存在の感情だ。時間は動的に過ぎる。空間は静的に存在する。時間は過ぎても想いは心に留まる。留まった心に空間が符合する。そこに感情が生まれる。私は動的な動きに人間の生を感じる。だから石畳をすり減らすほどに歩いた人々が、ここに存在していないことに心を留め心を動かす。
私は最近磨り減った石の階段や、石畳などに関心を持つようになった。銀座線の昔からの駅は階段が絹布で磨き上げたように磨耗している。どれほど多くの重みを与えれば石が減るのか。重みとは人生の重みのことだ。
私はいま居る時しかその空間と共有できない。もし私に時空を超える力があるならば、この磨り減った階段がどのように出来上がったのか現場立会人になることができる。
同じようにして道はたくさんの人が歩く。長い時間かかって石畳は丸くなる。私が愛した人が歩いた道を私は感情的に触れる。しかし最近ではもっとその感情は客観的である。限定された時間の中で生きている人間にとって空間の存在はうれしくもあり哀しくもある。こんな感情は最近芽生えたことだ。
道は誰でも通す。何があっても生きていかなければならないけなげな人間を通し、人間を踏み潰す戦の車も通す。馬も通すし犬も通す。通した後にその標しを残さない。けれども長い年月は小さな標しを積み重ねて、道にたくさんの想いが通り抜けたことを刻む。
私が感情的になるのは、自分の愛する人がこの道を歩いたことの哀しみか、自分もやがてこの道のうえから姿が消えることの哀しみか、あるいは哀しみではなく喜びであることを知ることなのか、まだそれを決めるにはまだ若すぎる。