集落の中で人々が助け合う精神は日本に古くから存在したものだ。南西諸島では、集落ごとの結びつきが強い。みなが助け合って生きていこうとすることは弱いものが生存する条件だ。沖縄のゆいまあるは相互扶助精神を形に表した、共同作業制度である。
兄弟げんかで兄が弟に勝ちを譲ると、おにいちゃんはえらいと親から褒められたものだ。わざと負けることで社会のバランスを取る文化に日本人は寛容なのだ。それも相手が困っているとなればなおさらで、わざと譲ることは一種の美徳になっている。
不況とはいえGDP世界第3位(本当はまだ2位?かもしれない)民主国家で、十両は月給106万6千円、幕下に下がれば無給というおかしな世界が存在し、完全成果主義だから前場所成績で今場所の位置が決まり、十両下位が相撲に負ければ幕下転落で無給になる。これでは結婚して子供を育てることもできない。これをおかしな世界だと私は思っている。
一方、相撲を目指す若者は中学を卒業してすぐにこの世界に入るわけで、30代で転職と言っても新たな仕事は見つからない。資金があればちゃんこ鍋屋を開業するくらいなのだ。いまどきちゃんこ鍋屋は繁盛するものではない。だから力士が引退後も生きていくためには年寄り株を持たなければならず、そのためには部屋を踏襲し力士を育てることが原則なのだ。
だから今回の相撲八百長事件は、弱いものが助け合う相互扶助精神に基づいた共同作業制度とも思えるのだが、私の意見には反論があると承知している。
この事件が公表された時に私の脳に?????がたくさん付いた。この事件は野球賭博事件に絡む調査で押収した携帯電話を分析した警察によって発表された。しかも八百長事件についての事件性はきわめて薄いと付記された。
なぜこの時期に事件性の薄いものが警察によって公表されたのか。この時期とは崩壊のカウントダウンが始まっている菅内閣が抱えている来年度予算案を巡って唐突にしかも国民的な議論がなされていないTPP参加を初めとして消費税率アップ、相続税アップなどの増税に舵を取ることをもっと国民的な議論にしなければならない時期にと言う意味である。
大メディアは八百長事件、そして新燃岳の爆発的噴火事件、鳥インフルエンザ事件の報道に精を出していつの間にかPTTも消費税アップも報道から姿を消している。その上エジプトの民主化運動など国際的な話題も相次いでいる。斉藤祐樹の入団そしてトレーニング風景やサッカーのアジア杯優勝も明るい話題としてお茶の間を占領している。
昔、力道山全盛時代の頃にプロレスは八百長ではないかと騒がれたことがある。あれほど痛めつけられていながら次の日にけろりとして試合に出るのはおかしいとどこかの新聞が書いたのだ。このことが国民的な議論になるかのように新聞は売れた。今そんなことをおかしいと言う人間は一人もいない。
力士が十両から幕下に転落してしまえば、これまでの月給はゼロになるだけでなく、今まで使用していた絹のまわしは洗いざらしの木綿に変わる。身の回りを見てくれた付き人はいなくなり、今度は自分が付き人になって関取の身体を洗い流し、食事の世話をし、関取が食べたあとの残り物を食べ、荷物持ちをしなければならない。日本が貧しく人々がハングリーな時代には生きるためにがんばったがこれほど成熟した時代にそのような不条理な世界に身を投げるようにして飛び込む人は少ない。だからハングリーな国に育った外国人力士が圧倒的に多い”国技”になってしまっている。
残酷とも言える転落生活に一瞬にして変わる七勝七敗の弱き立場の力士に、勝ちを譲る精神は、自らもまた弱き立場にいる、弱きものの相互扶助精神が形になったものと思う。昔、貧困を極める力士にわざと負けた横綱のしぐさが美談として称えられたことがあるようだ。
十両が八勝七敗で千秋楽を終えた状態を給金を残しましたとアナウンサーは言うが、給金を残したとは来場所も給料を貰えることの別表現に他ならない。星の借り貸しでこの世界はバランスをとっている。現状ではそれしかバランスをとる方法はない。おそらく親方は暗黙の了解をしていたのかもしれない。
課長の成績が下がったら翌年は給料ゼロかつ新しい課長の世話をするなど経済界ではありえない。見方によっては不条理な姿が厳しい勝負の世界という名の元に存在している。
政治家と官僚上層部にとって国民は衆愚であった方がラクである。だから自分達が困った時には、あるいは何かを無理やり通そうとする時には衆愚にふさわしい情報を意図的に垂れ流す、あるいは気を反らしてしまう情報を流すことは、大人なら誰でも考えることだ。
大メディアはそれに加担する。こうした構図が今回公表された相撲八百長事件の裏側にあるように私は推測する。 八百長事件を大メディアが糾弾するのなら、相撲協会がつくり上げたおかしな慣習を時代に則して修正するべきと糾弾するべきであり併せて、なぜこの時期に警察は八百長事件を公表したのかを問うべきなのである。
八百長事件が長引き、春場所どころか夏場所も開催が危ぶまれるとする報道を見てにんまりとしているのは誰か、メディアが八百長相撲にうつつを抜かし、国民の注意力がそれて悦んでいるのは誰かを想像しなければいけないのだ。私の???はいまでも???のままである。