はじめに道がありきか、行いがありきかと、哲学を論じるのではない。鶏が先か卵が先かと生命の起源に遡る話ではない。人間が先か、自然が先かと問えば、自然が先に決まっている。その自然の近くに人家が建つ。やがて集落になり、村が出来る。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」主要要素コアゾーン森林1へクタールを、森林組合が無許可で伐採していたそうだ。伐採理由が日当たりが悪い、風通しが好くないとする住民の苦情なんだそうだ。
新聞のニュースだから真実はわからない。新聞報道で素直に信じてよいのはテレビやラジオの番組表だけで、真実を伝えないのが新聞であることが、いまや常識になっているからだ。
ただ自然はどのようにして破壊されていくかが、このニュースで想像できる。人間と自然の境界線は、日当たりが悪いということで変更されていく。もともと森があったのだ。そこに風通しも悪く日当たりも悪いことを承知で人間は家を建てたのだ。そうして住んできたのだ。
普通なら話題にならないことが話題になるのは、伐採した森が世界遺産のコアゾーンだからである。世界遺産登録を申請する時には地域を挙げて大騒ぎをしたに違いない。世界遺産の本質は、観光客を増やそうということではなく、守り抜いて後世に伝えようということである。その本質を守るべき役所が、率先して住民の要望を訊き、そして風通しがよくなるように、日が当たるようにと、コアゾーンにある森林を破壊した。この森林が世界遺産のコアゾーンにあるとは認識していなかったというのが森林組合の回答である。
今よりも生活をよくしたいと願うのが人間の本質である。森がすぐそばにある土地を手に入れて家を建てる。やがて風が入ってこない。日が当たらない。家の中は湿ってくる。何とかしたいと欲が出てくる。そこで森を切ってくれと要望を出す。
私はこのことを批判はしない。人間の脳が持つ欲望だからだ。人間そのものだからだ。私もその一人だから。
三陸地帯は昔から津波に襲われていた。だから津波に経験した昔に生きた人たちは、ここまで津波がきたからこの下には家を建てるなと石碑にして後世の人間たちに残した。私はこの教えは地域遺産だと思う。教えを守った集落は今回の津波から難を逃れた。
しかし今回の津波で家を失った人たちの中には、漁に出るのに高台に住んでは不便で仕方がないと、もう不満が出ている。津波にかぶった土地はすべて国家が買い取りをして住宅を建築してはいけないと法律を作らない限り、やがて一人戻り二人戻りして家が建つだろう。人間はだれも自分にとって都合がよいことを望むからである。このことを快適と呼び変えることができる。
快適な暮らしをすることは人間にとっての欲求である。文明は快適を求める人間が自然と戦うことでつくり得たものである。しかしGoogle-earthで地球全体を眺めれば人間なぞ細菌以下のサイズでしかない。自然とは宇宙のことだから人間が勝てるわけがない。人間は自然に寄り添って自然を敬いながら生きていくことがいちばんよい生き方である。多くの人がそのことに気付いてきた。
気づいても快適を求めるのは人間の性だから、止めることができない。転んでも転んでも同じ道を歩くことになる。それが人間なのだ。快適を求め続けている人間にとって不都合なのは日陰をつくる森ではなく、日陰をつくる森を不都合と考えることでもなく、不都合を排除したことで生じた結果ことこそが最大の不都合なことなのである。
もしも人類が時間を遡って映画を観るように過去を振り返ることができたならば、因果をわかっている観客は、快適を求める人間の行いを、ため息をつきながら、はらはらして見ているのに違いないのである。