明日は、軽井沢へこの蝶を見に行く予定を立てていたが、待ったなしで進んでいる原稿締切日はそのような夢を砕いてくれる。だから、私は行けない土地に思いを馳せている。
氷河期時代の生き残り、パルナシウス族うすばしろ蝶だ。この蝶は、しろ蝶と呼んでいるがアゲハ蝶の仲間である。日本には仲間が三種、ひめうすばしろ蝶と、特別天然記念物うすばき蝶だ。うすばきは大雪山の一角しか棲まない。
中国や欧米の高地にはパルナシウス・アポロが棲んでいる。アポロとは太陽の神で、この鱗肢に深紅の丸い紋がついている。私はアポロ蝶を4頭持っている。
写真は去年の今日、軽井沢の森で撮影したものである。食草のムラサキケマンを見つけて待っていたら、案の定大型の白い蝶が飛揚していた。写真は羽化したばかりで、鱗翅が伸びるのを待っているところだ。太陽が出ると舞い上がり、日が陰ると草むらに下りて休む。地上の生き物はすべて太陽に育まれている。
今年の軽井沢は冬が長かったから、うすばしろ蝶の羽化は遅いかもしれない。今朝も気温は3℃であったと軽井沢の友人からメールが入る。今年の夏はいいなあ、と返事をしたが、夏は別天地である。
うすばしろ蝶に会うために飛んで行きたいのだが、私が週末に書く原稿を、待っている人が中国にいる。中国語に翻訳する人、それを本にする人、読む3000社の経営者達。だから私は空想の中で、うすばしろ蝶と出会っている。
生きることは体験することだ。福島県の三春で産まれた友は、昨年夭逝した。彼はこの悲惨な震災を知らない。友は体験しない。私は生きているから体験をする。
私は関東大震災を体験していない。戦争疎開は記憶にあるが、空襲の記憶はない。時間はどこにあるのか。なぜ私はいまこうしているのか。時間は時計の中だけにあるのか。どこを流れているのか。私たちは時間の流れにどう乗っているのか。
時の流れに人は何を得て何を失うのか。産んでいるものはあるのか、創っているものはあるのか。それは何か。私は動き、体験をする。時は流れる。私が記録したものだけが記憶に残る。その記録さえも最後は捨てられる。
時はあらゆるものを引き連れて、進んでいる。私たちは時に乗って生きている。時は私たちを乗せて進み、時は私たちを振り落とす。
被災地では流された写真を探して町を歩き回る人が大勢いる。思い出写真館も出来ている。流された写真集を一箇所に集めた場所だ。みな記録を求めているのは記憶を甦らせるためだ。私もPCに保存している写真から記録を引き出して、記憶を甦らせている。こうして時が流れる。うすばしろ蝶は子孫を残すために飛び交い、私は待っている人のために、休日を使っている。
私は考えることもできる。想像することも出来る。音楽を楽しむこともできる。私を待つ人のために、働くことも出来る。生きていれば時に未曾有の経験もするが、生きているからこその話である。