人類の英知とはなんだろう。私の知る限り、東海道新幹線が開通した時に褒め称えた言葉が人類の英知だ。原発一号機が完成した時もマスコミは原子力の平和利用は人類の英知によってもたらしたと絶賛した。人類の英知とは途方もない発明をして文明が大きく進んだ時に使う自画自賛の言葉だ。
人類の英知とは、自然を畏怖することだと思う。原発ができたことが英知の結晶ではなく、どのような自然災害でも安全であったことが人類の英知である。
iPadでいつも見るGoogleEarthは、人類がいかに微細な存在であるかを思い知らせてくれる。地質学はやがて遠い将来の地球の姿を教えてくれる。スーパーコンピュータは、2100年の地球温度がどれだけ上昇するかを予測してくれる。天文学はこの星に起きる出来事は、宇宙の出来事であることを教えてくれる。
原発は賛成か反対かとよく問われるが、その問いはもう遅いのだ。
日本だけに限って言えば、この島国に、プレートの構造上、地震が起き易い場所に、ここまで経済を発展させてしまったことがそもそも誤りであったのである。
原子力爆弾の開発をとどまったことが人類の英知であって、原子力爆弾を開発したことが人類の英知ではないと思う。自然の脅威に打ち克つために文明は発展し、発展したことで自然が壊れ、文明は壊れ人類は死滅する。文明誕生と崩壊の歴史を人類は知っている。
人類の英知とは自然を敬い、自然を畏れて、文明を開花させることであると思う。自然の動きは宇宙の動きなのだから、人類が自然事象に想定外などと発言するのは愚である。手に負えないものは扱わないようにする。それこそが人類の英知であると思う。
現代は人類が作った知恵によって人類が苦しんでいる。そんなことがそこらに転がっている。
そんな世界から抜け出して田園に帰ろうと書いたのが「帰去来の辞」(陶淵明)である。妹が死んだことを契機にと説明をしているが当時はエネルギーが枯渇している背景があったようだ。作家の堺屋太一の話である。
今日は重陽の節句。古い中国では九を尊び、九が重なる九月九日は陽が重なる日として高いところに登って祝ったという。
私も自然の中で暮らしたいと思うけれど、こういう混乱の時にこそ、価値感は変わり仕事は面白い。そんなわけで私にとって今日は、新刊が書店に並ぶ日なのである。自然に引っ込んでひなびて萎えてしまうより活き活きとして面白い。
私にとっての英知とは、何があっても前に進んでいくこと…。この一点だけである。