今年、私は朝日が当たる部屋に机を動かした。これまでは西日が入る部屋であったが、いまの場所はもろに朝日を浴びる。するとどうだろう。私の身も心も活き活きとしてきたのだ。
地球は自転し、生物は毎日生死を繰り返している。一日の終りに迎える睡眠死と、一日が始まる誕生目覚めのことだ。朝日は人を目覚めさせ、今日一日の活力を与えてくれる。
結局、人間は一日の苦労は一日に足れりでよいのだ。太宰治は空飛ぶ鳥は明日のことを思い煩っていないと書いたが、私もそう思う。
普段、私は朝日を楽しむことをしていない。朝日を楽しむなど考えたこともない。
こうして休日の早朝から出社して、朝日が降り注ぐ机に向かうとなんともうれしくなり、活力が湧いてくるのは、春日の高台に建った日当たりがよい部屋に移ったお陰なのだ。
まぶしいほどの太陽に当たって仕事をし、部屋を出ると絵画があって、ふと見入ることがある。
一時期、飢えを癒すように絵画を収集した時期があって、数えると画廊を開けるくらいに集まったが、いまは私の事務所にあって、作家がどのような思いでこの絵画を描いたのか思いをめぐらせると、心を遊ばせることができる。
私にとって絵画は、ONからOFFへのスイッチなのだ。
道化が終わった男の顔は、永田力画伯の筆によるものだが、私は写真の変わりにこの絵を遺影にしてくれと頼んである。そして祭壇は不要。木を二本並べその上に棺を置いて白いシーツを掛けて、都忘れかフリージェの花をグラスに差し、遺影代わりに、この絵を立てかけてくれと注文を出している。
かくいうけれど、私の願いを頼んだ男は、私より先に死んでしまって、井上陽水をお経代わりに唄う約束も反故にされてしまった。だからこの願いは誰かに伝えなければ実現しない。
オフイスには朝日を浴びることができる部屋と、西日が当たる部屋と、心を遊ばせることができる空間があって、ここでは一日の始まり・・・生命の復活から、死後に至るまで想いを馳せることができる。
一個の生命として、朝日が当たることの歓びを知ったことで、この空間は小さいけれど一個の宇宙であることを思い知ったのである。