金曜日の夜に、画家から電話が入った。二人でゆっくり語り合いたいという連絡であった。日本人は大勢だと話をしない。少人数になるとよく話す。だから二人で話したいと言った。
風が強かった土曜日。中村屋で小さな和菓子をいくつか買い、画家の家を訪問した。
画家は元気であった。今まで話をしたくなかったけれどと・・・遠くを見つめながら、シベリアに抑留された話しをした。
-40℃を超える冷気のなかでモスクワの官僚がデスクで設計した工程表ノルマに従ってシベリア鉄道を日本兵がつくった。すべては8月9日、日ソ不可侵条約を破って突如にして日本軍に攻め込んだソ連軍によって始まったことだ。
毎日、死んでね。死ぬと埋めるために凍てついた土をつるはしで掘るのだけれど、凍土は岩石のように固くてね。大きな穴を掘ることができない。そこで死体を二つに折る。着ている服を脱がせて・・・ふんどしだけは取らない。ごめんね。ごめんねといいながら二つに折った死体を小さな穴に入れて、上から凍てついた土をかけるの。でも翌日行くと、狼か野犬かわからないけれど、墓は荒らされ死体は食べられている。死体から剥ぎ取った服は生きている人が着用する。
こうした日常が、毎日続く。
画家は、戦争の悲惨さを、自らの体験談を元にして2時間ほど話してから、重い話になったね。こう言って話を画家は引き取った。
いつの時代でも、時代は人にとっては緩やかなものではない。人は時代に翻弄されている。画家の話は時代が作った地獄絵図のようだ。
娘の子供たちは、放射能と津波と地震体験をしている。私は母の背中に背負われて空襲の火炎から逃げ惑った。空襲が激しくなり母の妹の家に疎開した。疎開のことは昨日のように覚えている。
自然災害は仕方がない。けれども人間が犯した誤ちは、二度と起こさぬように語り継がなければいけない。
ところが、時代は移り、語り部も移り、人は何も知らない赤ん坊として生まれてくる。こうして人は過ちを繰り返す。
この日、私は画家と夕食を共にして、その足で電車に乗って家路に戻った。