芽吹きは、エネルギーがいるものだと思う。木々は冬を越すために葉を捨てる。そして厳冬に耐えまた春に芽吹きをする。
軽井沢は芽吹き仕立てのころであった。木々の先に芽吹きが見える。まだ桜の花が残っているのだから、本格的な芽吹きはこれからである。
関越に入るまでは渋滞をしていたが、入ってしまうと高速道路はうそのように空いていた。
春の連休なのに。しかも快晴なのになぜ空いているの?と思いながら、クルマはあっという間に軽井沢についてしまった。
目的は天空のカフェに行くことが一つ。二つは軽井沢の知人に会うことであった。
天空のカフェは、左に妙義山、遠方には南アルプス連峰、八ヶ岳、北アルプスが一望でき、手前には押立山、西武スキー場、軽井沢の町並、離山が一望に見渡すことができるのであった。霞が出ていて明確に写っていないが遠景の左が妙義だ。
右下のクルマはマイカー。画面中央のこんもりした山が軽井沢の離山。その右奥、わずかに残雪があるのが北アルプス連峰。おそらく常念岳当たりではないかと思う。画面左の白い建物が西武のアウトレットである。
写真を見れば、木々は芽吹き始めであることがよく分かる。むかし、仕事仲間の若い女性が、春が一番苦手な時だと言った。「木に精気をとられそうだから」。
せん病質であった彼女の発言は、妙に真実味を帯びていた。「木は生き物の精気を吸い取って芽吹いていくと思っているの」。
そうだとすれば、芽吹くことも命がけということだ。
創造することは、あるいは生み出し産み出すことは、エネルギーを必要とする。
この日はそれから南平台、そして追分に行った。追分で6年前に首都圏から移住して営んでいる自焙煎珈琲店の夫婦とよく話をした。奥さんはとても元気な人だった。
家に帰ってからこの店主のブログを読むと、シートベルト違反で切符を切られたと悔しがっていた。私ではありません。女房がシートベルトが大嫌いで、付けろといっても聴かないものだからと、違反の背景を語っていた。さもあらん。それほど元気なお母さんであった。
木々は、芽吹きを上手にこなして、若葉になり、新緑の頃を迎える。
きっと芽吹きのエネルギーは、誰かの精気を吸い取っているのだろうと言った40年前の話を思い出したら、目に見えない吸い取られているエネルギーが空気中に漂っているのではないかとふと思った。そう思ってみるとたしかに、春の霞や、もやはその精気が漂っているのだと言われれば、否定する要素はないから不思議である。