万平ホテルは、明治27年につくられた洋式ホテルだ。創業時は亀屋ホテルであったが初代佐藤万平の名を取って万平ホテルと改名した。
いつも訪れる軽井沢の森には、ことし最後のうすばしろ蝶が舞っていた。やや小ぶりで、翅は痛んではいなかったが、7月上旬にこの土地から姿を消す。食草の「むらさきけまん」が、自生している土地なので、こうして毎年、晴れた日には大型の白い蝶として姿を見せてくれる。
私は、天気予報でこの日が晴れることを確認し、友を誘って蝶に会うために軽井沢にやってきた。都会に住むと土のにおいがしない。森に入ると湿った空気が土のにおいを載せている。私はこの森でニセアカシアの若木をはさみで裁断しながら、うすばしろ蝶の舞姿を楽しんだ。
それから昼食を食べ、人と会い、つるやで買い物をして、万平ホテルに立ち寄った。この古式ホテルは、いまは森観光トラストのグループ会社で株式会社万平ホテル。代々続いた創業家の佐藤さんは、いま、北軽井沢で別荘族が夏の終わりに捨てた犬をたくさん引き取って面倒を見ている。
秋に軽井沢へ行くと、気まぐれに飼われ、気まぐれに捨てられた犬が彷徨っている。こうした犬を佐藤さんは引き取って命をつないでいる。
代が代わろうと古式ホテルの美しさは変わらない。70年代にジョンレノンがこよなく愛した万平ホテルはいまも健在だ。
これから一気に夏に向かう。万平ホテルを包むようなもみじの木々は、美しい緑色だ。4ヵ月後には紅葉するとは思えないほど緑色に燃えている。
この土地も、宇宙に面している。地球は一秒に500メートルの速さで自転し、一秒に30キロメートルの速さで公転している。人はこの事実を感じなければいけない。
私たちは何事もないようにして、古式ホテルを愛で、これから夏に入る自然の美しさに感嘆している。何事もないようにしてとは、健康であることの証明である。
三週間ほど前、突然に腰痛を経験した。私は立ち尽くしたまま一歩を踏む出すことができなかった。たった一歩を踏み出すことさえ、ことが起きたらできないのだ。
若い友を誘って、運転を頼み、往復370キロのドライブを楽しみ、土のにおいに喜び、心地よい風に驚き、古式ホテルや美しい木々に感動できることは、何事もなく生きていられるからである。
何事もなく生きていることがいかにすばらしいことか。何事があっても何事もないように生きることがいかに大切なことか。私たちの生命は宇宙と直結していることを知ったら、生を粗末にすることはできない。宇宙の偶然で生まれ、宇宙のリズムで生かされている。このことを、もっと深く知らなければいけない。この事実を私たちは深く感じなければいけない。
私はまもなく日が落ちる4時過ぎに再びうすばしろ蝶が飛ぶ森に戻った。もう吹く風も、土のにおいもさっきとは変わっていた。太陽の光も先ほどとはまったく違っていた。このことも地球の自転と公転とから生まれた現象だ。
何事もなく生きていることに喜びを感じて、軽井沢の一日が終わった。