三浦雄一郎が来年3度目のエベレスト登山に挑戦する。彼は来年80歳になる。
一方で世の中には60代から筋肉が弱って寝たきりになる人がいる。
この差は何なのかといえば、わかりきっていて不断の努力の違いだけだ。
誰だっで体力は衰えるが、三浦雄一郎は体力の衰えを、訓練することで補っている。
補うことこそが、努力そのものである。
歳を経れば補うものが増えてくる。補ったのか、補わなかったのかだけが、最後の違いになる。
つまりはエベレストの頂上に立てるか、ベッドで寝たきりになるのか、その違いは、補ったのか、補わなかったのかの違いだけになる。
人間は常に補い続ける。
受験するために塾に通い、あるいは復習と予習をやって学力を補う。水泳のできない人は水泳教室に通って水泳能力を補う。語学を学びたい人は、留学し語学力を補う。人間は、いつでも補い続けていないといけない。
補うには、意志と、時間と、時にお金が必要になる。お金をかけなくても補うことはできる。歩くことはお金はかからない。初めは補うことにお金はかからないはずだ。不断の努力を続けていればお金はかからない。しかし、怠っていると補うためにお金がかかることになる。生活習慣病の治療はそのよい例である。筋肉の衰えによる寝たきりも同様である。
三浦雄一郎は衰えた体力をエベレスト登山に適した体にするため、両足にウエイトを掛けて歩いた。意志と時間が掛かることを彼はやりとおした。補い続けることが努力の正体である。
その成果が来年挑戦するエベレスト登山である。
私はできない人を指さすことはできない。私自身がいろいろと補ってこなかったからだ。けれども人生はいくつになっても気が付いたら改めればよいのだ。人間は過去を振り返れば今日が一番年老いた自分だが、未来を見つめれば今日が人生で一番若い日になる。未来に対するリスクは年齢に関係なく均一である。
私を前に進める力は、補うことそのものではなく、深堀することによる新たな発見である。発見すれば、発見したものが実現できるゴールにたどり着きたくなる。発見こそが私のエネルギー源である。
発見は直観力でもたらされる。こういうタイプは、補うことが不得手である。努力をしてもわからないことまで、わかってしまうからだ。するとエネルギーは発見の解明に使われることになり、補うことをしなくなる。それがバランスを崩し、私もやはりエベレスト登山は無理な体力に向かうのかと思うことがある。
そこで補えない人を指さすことはできない。せめて他山の石、以て球を攻むべしという故事から自らを補わなければいけないと思う次第である。