曾祖父である服部惣右エ門が、幕末に暮らしていた住居の真ん前にあった生駒さんの子孫から突然メールが届いた。もちろんお互いが初めてのご挨拶である。先祖同士は入魂の間柄である。お互いの家は道路を挟んで真ん前。仕える殿様は松平公。三河にある深溝(ふこうず)松平家が出身でそのころからというとおそらく200年から300年くらいは交流していたわけである。もう近所というより血族であると思う。偶然に、私のブログを読んでわざわざメールをいただいたのである。
上の写真が惣右衛門の住まい跡で、私は生駒さんの住まい跡からデジカメをズーミングして撮影したことになる。
生駒半蔵さんがどんな人であったかはすべて書類がいまの時代に引き継がれて残っていて、島原市役所に行けばすぐにわかる。私の先祖もいろいろなことが分かっている。郷土史にもでてくるのだから驚く。
市役所でなくても松平藩の菩提寺、本光寺でもわかる。島原はいまでも城を中心に中世期に生きているようなところだ。
慶応大学三田校舎は、島原松平藩の江戸屋敷跡地であった。だから子孫たちは江戸屋敷を福沢諭吉に取られたという。幕府は、天草の乱の後に京都福知山にあった松平藩を島原に移して天領地とした。天領地とは幕府直轄地のことで大名直轄地と比較される。
私がこんな知識を持っているのは島原藩の子孫たちを経て学んだものだ。いまから28年前、本光寺に、永田画伯に連れられて初めてお伺いした時にも、二代前の住職は、寺を訪ねてくるたくさんの人を指さしてあの人も君の血族だ。あの人も君の血族だと聴かされて驚いたことがある。
脚本家の市川森一さんは島原藩御殿医の子孫である。熊本の石原さんも島原藩の子孫である。ひょっとすると生駒家に嫁いだのは私の知る石原さんの先祖かもしれない。
人間は過去には戻れないのだから、このノスタルジアは未来のノスタルジアである。
ちなみに島原観光名所になっている武家屋敷跡は、城外にある足軽屋敷跡である。足軽屋敷でも石垣でぐるりと囲まれている。わが先祖たちは城内にいて、場内は大手門、諫早門、桜門などがあったわけだから高い石垣に守られていたことになる。と、島原藩士の子孫たちは、こういう自慢話をいまでもする。心は中世期とつながっているのだ。
天草の乱は、日本を変えるターニングポイントとなった乱であった。オランダ軍艦の力を借りてようやく天草の乱を制圧した幕府は、代償としてオランダに貿易を許した。出島がその場である。鎖国をしてもオランダの文化は出島を通じて日本に入ってきた。
蘭学とは、オランダ学のことである。長崎では欧州人をおしなべてオランダさんと呼び、高台にある外国人居留地に至る坂をオランダ坂と呼んだ。こうしてオランダの医科学が出島を通じて日本に入り、やがて長崎は倒幕の志士が集まる外国文化のたまり場になった。
私の孫も、島原の血を曳いている。それは私しか気づいていない特長となっている。DNAは未来にまでノスタルジアを運んでいる。