人間はすべて、いや、生き物はすべてと言い換えたほうがよい。人間は一代で完結する。命は連綿と続き、一代は生まれ、育ち、何かをなし、老いて消え去る。その一代は先人が繰り返してきたことを同じようにして繰り替えしている。
30日から4日間、仕事をしなかった。その間、よく眠った。いままでの蓄積した疲労がほとんど回復したように思えた。30日はホテルのスパークリングバイキングでランチを食した。31日は次女家族が来て昼食と夕食を共にした。31日には長女がシーズ犬を連れてきた。亭主は子供を連れて郷里に戻っていた。
離れているようだけれどスマートフォーンのおかげで、近くの公園で遊んでいるとか、今日の昼食はこれとか、写真が送られてきているようであった。
食事をする以外は、私は自室でほぼ眠っていた。目が覚めると手元に置いてあるiPadを開いて文章を読んだ。私が20年も前に言っていることや10年ほど前にさんざ語りつくしたことを、新発見のような語り口で書いてある文章に行き当たった。
人間は同じことを連綿と繰り返している生き物だと、その時に思った。
年末に寝室の掛け軸を替えた。堂々物外の心。京都嵯峨野にある天龍寺の元管長関牧翁に為る書である。物外とは、物質界の外、俗世間の外という意味だ。わかりやすく言うと平常心とでも訳そうか。禅宗ではすぐに悟りというが人間に悟りはできない。悟れるはずはない。宗教家は俗世間と離れた特別な環境で過ごすので悟った気になるだけのことだ。
人間とは何かを知りたければ、このブログの2012年12月29日号、「よっぱらった二人」の絵を見れば解がある。
関牧翁は群馬県下仁田の出身である。いつでも風呂上がりのようなさっぱりとした美しい顔をしていてテレビでおなじみの人だった。下仁田はよく通る道で、ネギとこんにゃくで有名な、美しい山間の町である。そんな縁から入手した掛け軸である。
発展は緩やかな坂道をあがるようなものではなく、はしごをよじのぼるように垂直にするものだ。私の専門分野では、そして私が取り組んでいるのは、iPadの登場で坂道に高い梯子が掛かった。見える人間だけが上ることができる梯子だ。その梯子をさらに上るために、私は今日から仕事を開始した。
出社すると、PCがバックアップをするようにしきりに勧めていた。
年末のある日、画面は初期化したようになった。復旧したもののデータはすべて自動保存になっていた。そのあとにバックアップをするようにと勧めのメッセージがとまらなくなっていた。
私は今日、バックアップの仕事から始めることにした。手持ちのCDRを10枚ほど使いそうな勢いでPCはバックアップを続けていた。
私は誰と同じことを連綿と繰り返しているのかとふと思ったが、誰でもなかった。同じことを繰り返しているモデルは私自身であった。