東京新聞には、秘密保護法を反対する人たちが連載をバトンタッチしているコーナー<言わねばならないこと>がある。そこに映画監督の小栗康平氏が述べている下記の部分が私の琴線に触れた。
「数字だけに価値を置けば人間は疎外されて孤立し不安がはびこる。ナショナリズムはその不安を背景に台頭する。こうなってしまったのは素手で土に触るような生活感が薄れているから。嫌いなものは嫌いだ、と体が反応しなくなっている。私たちが正体をなくしている。栃木の田舎に住んでいるが、農家は高齢化し専業も少ない。でも勤めに出ている人も戻り、みんなで五月の連休に田植えをする。数値至上主義が極まればこうした地域社会は壊れる。」(東京新聞2014年1月19日号1面 「秘密保護法 言わねばならないこと」より部分抜粋 Copyrigets小栗康平氏)
都市に住む人たちは、必ず数字と向き合っている。時間という数字、おかねという数字、目標という数字、損得という数字、義務という数字、領域という数字、ターゲットという数字・・数え上げれば両手の指を繰り返して折り曲げることができる。
私も都市に暮らしている以上、いくつもの数字と向き合っている。数字こそが都市で暮らす人のストレスとなっている。
田舎社会に住む人だって数字は付きまとうが、向き合えるものがもう一つある。それは自然だ。人間は自然によって生かされていることを知り、人間は自然には絶対に敵わないことを知り、したがって自然と対峙するには地域社会と絆を深めなければならないことを言われなくても経験的にわかっている。
人は都市で暮らしていくことで変容を続け人間の正体を失ってしまった。私は信州東部に住む何人かの田舎暮らしをしている人たちと知り合いになることで、さらには長く生きていることで都市に暮らしても栃木県の田舎に暮らす小栗氏の境地が理解できるようになっている。
人はどこから来て何処へ行くのか。ゴーギャンの言葉がふと思い浮かんだ。