高村光太郎は日本を代表する彫刻家であり、そして詩人でもあった。あったというのはいまや故人となってしまったからいうのであって、いまも日本を代表する彫刻家であり、詩人であることには変わりはない。私は10代のころ、智恵子抄を読み、それから道程を読み、やがて光太郎を愛読した。
光太郎が戦争を賛美の詩をたくさん書き、やがて戦後に戦争協力責任を負って花巻市山奥に小屋を建てて一人で(亡き智恵子と共に)蟄居生活を送ったことを知ったのは、高校一年生のときであった。
真珠湾の日
高村光太郎
宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
昨日は遠い昔となり、
遠い昔が今となった。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと、
あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもろう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。
国は音楽家、画家に戦争協力を依頼した。協力しなければ入獄の道を選択しなければならなかった。多くの芸術家が協力した。このことは深く書かない。それほど人間は強い者ではない。
戦争に負けると、多くの芸術家は戦争協力作家であることを拭い去って立ち回ったが光太郎は違っていた。
わが詩をよみて人死に就きにけり
高村光太郎
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがった。
死はいつでもそこにあった。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になって私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かった。
その詩を毎日よみかえすと家郷へ書き送った
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
光太郎はいろりだけで冬を過ごしたという。
その小さな住まいから、光太郎はいま亡き智恵子に岩手県花巻の風景を案内している
案内
高村光太郎
三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝(せ)、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯(か)ういふところ好きでせう。
裸形
高村光太郎
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙(めのう)質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪(バター)とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう。
高村光太郎は10代のころに知った人物。もうこの世にいない人だが、いまも私に影響を与え続けている。本当はその逆で私はいまもなお光太郎から影響を受けている。そのおかげで、私は光太郎夫妻から人一倍の感受性を授かり、あれから50数年以上もたったいまでも智恵子抄を諳んじ、私なりの人年齢に応じた人生の楽しみ方を私に教えてくれる。
戦争が終わって70年にもなると、戦争を経験しない世代が世の中の中心を占めるようになってきて、きな臭い時代になってきた。あの時と同じように翼賛体制が生まれ、日本は戦争ができる国にまっしぐらに進んでいる。
国家とか、大義などは、個人にとってはどうでもよいことだ。大切なことは自分の人生で、誰と出会い、別れたか。その人とどのような関係をつくり、つくり続け、その人と、どれだけの期間、心を通じ合えたかだ。光太郎は花巻での暮らしでそれを会得した。
十和田湖のほとりに乙女の像を建てた光太郎は3年後にこの世を去った。
昨日は久しぶりに休んで、青空文庫で高村光太郎を何冊も読んだ。それからしばし光太郎と智恵子の人生を考え抜いていた。人は出会って、愛して、やがて別れ、これを繰り返して、死んでいく。具体的なものはこれだけだ。光太郎智恵子は、智恵子抄を残し、多くの彫刻を残し、詩を残し、切り絵を残し、生き様を残した。
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所(ここ)に住みにき」
光太郎が残したこの和歌を読めば、人間にとって何が一番大切なものかが分かるというものだ。