タイトルは、井上陽水のファーストアルバム「氷の世界」にある昔の恋への惜別を謳う「心もよう」の一説だ。
沖縄県八重山民謡「トゥバルマー」では、「月見ればむかしの月だけれども、変わって行くもの、それは人の心」と唄う。
月の満ち欠けに、人の心の満ち欠けを掛けて唄う、民謡の宝庫八重山諸島に唄い継がれる名曲だ。映画「ナビィの恋」では、オペラ歌手が歌ったが、聴きごたえのあるものであった。
人は変わってゆくものだ。それは誰でもわかっているはずなのに、変わる人心(ひとごころ)をなぜに悲しむのであろうか。
昨日は、午前中クルマを使って仕事先に出かけた。流したCDに「心もよう」と、「トゥバラマー」があった。トゥバラマーは「ナビィの恋」のサウンドトラック盤であった。
人は人の心のむなしさに泣く。
あらゆるものは移ろうことを知った、島国に生まれ育った民族が持つ固有の感情だろうと、音楽を聴きながらそう思った。
心もようでは、四季の移ろいが人間を変えていくと唄う。トゥバラマーでは、月は元の満月に戻るけど、人の心は欠けてしまったら戻らないと、自然と比べて人の心のもろさを唄う。
なぜに悲しいのか。私はハンドルを握りながら考えていた。着地点は、人の心が変わることが淋しいからだ。淋しさを癒すために演歌が生まれたのだ。
けれども、淋しさは対象が生まれることで忘れ去るものだ。私は淋しい時には対象を求めては、ならないことを、よく知っている。
淋しい時には淋しさを受け入れることだ。解消する対象を求めてしまっては、せっかく人間が成長できるチャンスを自ら捨て去ることになる。
やがて悲しみは光と化す時が来る。高村光太郎は、そうして智恵子が万物になって満ちていることを知った。
それまで愚痴に満ちていた日本のフォークソングに比べれば、四畳半から抜け出た陽水の音楽は好きだが、それでも生まれが日本だから、聴いていると渚に寄せる波の音が聴こえてくる。
それから、私はジョンレノンのワーキングクラスヒーローを聴いた。イギリスは島国だが、ドーバー海峡は泳いで渡れるくらいの距離だから、島国国家の意識はなく、歌も大陸的だ。労働者階級の英雄と名付けたこの歌はイマジンのB面として1975年に発売された。私は最近、ビートルズやポール、ジョンレノンに戻っているようだ。
それにしても思う。
日本民族は、だれでも「季節はめぐりあなたを変える」と思う人たちが集まってできているのだ。日本の自然を起点として情念発想をする民族なのだ。情念とは理性では止められない念のこと。
変わるものを追いかけると物事の本質を見失う。哲学を持たなくなると言ってよいかもしれない。
私には多くの別れがある。別れを情念だけで受け止めず、癒す対象を探さずに、誰にも吐露せず
耐えることだ。そして変わらないものは何かを探すことだ。
人間の一生は変わり続けるものだから、変わらないものはここにはない。あるとしたら、対象を連続した命のうねりとして捉えるか、あるいは光太郎のように対象を形而上の存在とした昇華するかどちらかだ。
命のうねりに置き換えたら、対象としての個は消滅する。形而上の存在にするためには耐えて哲学せねばならない。哲学する時に適切な文学や絵画、演劇は力を貸してくれる。
それもできないとしたら、心を揺さぶる短調のコードに身も心も委ねるしかない。
やがて季節はめぐりあなたを変えていくことだけは確かなのだから。