夕方18時過ぎに仕事に区切りをつけるために南一杯に開いたベランダに立つと肌に涼しい風が吹いてくるようになった。太陽も心なしか早く沈むようになった。まもなくつるべ落としの秋がやってくる予感が体感で分かるような季節になった。
秋は夏から抜けて涼しさを運んでくるからうれしいのだけれどまた寒い冬が来ることが分かっているのでとても淋しい。私は夏から秋に季節が変わるころがとても淋しくなるのだ。
我が人生の方は、85歳から老後のことを考えようと決めたので、老後を考えるのに13年も時間がある。この間に好きなことをたくさんやっておこうと考えているのだからさい先に寂しさなどどこにもない。過去にも未来にも取りつかれている暇はない。いまを生きているので現在に憑りつかれているかといえばそんなことはない。
したがって人生の先が淋しいなんてことはまったくない。
やることをやったということはない。そんなに立派に生きてきたわけではない。しかし振り返って過去を変えることはできないからやるべきことをやったなんてことを言えるのはそんなに多くの人たちではない。
秋風が立つとは、人間関係に秋風が立ってきたという使われ方をする。そんなことはどうでもよいのではないかと私は思う。生者必滅、会者定離は定めなのだから、誰もが粋な別れ方をすればよいのだ。
そんな私が住む東京にも夕方になると秋風が立ってきた。まだ8月19日というのに、この瞬間に私が淋しく感じるのは何故だろう。地球の地軸の関係で太陽との距離が変わってきたことが淋しさの真相なのだが、いったいなぜだろう。なぜに淋しいと脳が感じるのか。
これは日本人が持つDNAかもしれない。四季がある日本では、昔は冬支度をしないと、生きられないことがあった。だから生存本能が冬支度をしろと教えているのかもしれない。それが本当かもしれない。