人間は時間に流されていない。
私は時間に流されている小舟に乗ってはいない。
人間は時間の中で生きている存在ではない。
時間と人間の生死は相関関係も因果関係もない。
物質は生死スイッチを押すことによって生まれる。
死は自然死を意味している。
人間も岩石も同じことだ。
万物は生まれたことにより滅びる運命を持っている。
生死スイッチは人間が考えるタイマーではない。
ゼンマイ仕掛けでもない。
単純な一つのスイッチだ。
押すだけで生まれ、やがて死ぬことができるスイッチなのだ。
私はやがてこそが時間の流れと思っていた。しかし時間は人間がつくった概念であり、時計は計測機に過ぎないことを気付いた。
古代の人間は星の運行を見てカレンダを括りだし時間を考え出した。
物理学は距離と速さと時間を使って公式をつくり出した。
人間以外に時間の存在はない。
動物は明日を怯えることもなく、過去を憂うこともなく、いまの一瞬を生きている。
人間はコミュニケーションの手段として共通概念を作成した。
これが時間である。
人間は時間の概念を共有したことでより正確なコミュニケーションを持続できるようになった。
仕事をするうえでスケジュールは欠かせない。
時間とはこれだけのものだ。
後は何があるのか。
私は、私の人生を形而上的に捉えてみると空間の中でしか生きていないと思うようになった。
人間は地球の公転と自転を物理学的に割り出して時間を見つけたけど、それと万物の生死とは別個なことだと思うようになった。
私は時間に支配されていない。時間は日めくり暦という名で私とは別個に存在している。
万物は時間に支配されていない。
生死スイッチが作用し、個体は生まれ、生存し、滅びるだけである。
支配されていない以上、万物は空間的存在である。
人間も、したがって私も空間的存在であると思うようになった。
過ぎ去った時間は記憶である。
たったいまの時間は一瞬である。
これから来る時間は夢である。
時計は人生と何ら関係ない概念だ。
時間は時計と暦の中にしか存在していない。
過去も、いまも、未来もこのことに変わりはない。
犬は人間の記憶の中にある。人間は建物の記憶の中にある。
建物は古木の記憶の中にある。
古木は巨大岩石の記憶の中にある。
巨大岩石は火山帯の記憶の中にある。
火山帯は地球の記憶の中にある。
地球は太陽の記憶の中にある。
太陽は銀河星雲の記憶の中にある。
銀河星雲は大宇宙の記憶の中にある。
大宇宙は無空間の記憶の中にある。
記録は記憶を引き出すが記憶のない記録は意味はない。
時を形而上的に追いかけていくと過ぎ去った時間とは記憶のことになる。
時を形而下的に追いかけると面白い結末が待っている。
一人の少女が強い風に吹かれてスカートは巻かれ歩けずに立ち止まっている。
ある一瞬、風が止まった。
少女は安堵した表情をした。これで風は去るかもしれない。
時は一瞬である。人間以外の生き物は一瞬を繰り返して生きている。
風に吹かれて立ち止まってスカートを抑えている少女。
風が止んで安堵の表情をしている少女。
空間の中で一瞬の連続を重ねながら人間は生きている。
時は流れていない。流れることもない。そもそも時間などはないのだ。
一瞬が動画フイルムの駒送りのように見えるから流れていると錯覚をするだけだ。
人間は時間を意識すると時間に束縛されてくる。過ぎ去った時間に拘束されこれから来る未来に拘束されいまの時間に拘束され、なんと不自由な時間を過ごしていることだろうか。
私は人生を生きるうえで時間は存在しないものと考えてきていこうと決めている。私は空間の中を生きている。過去は記憶にして一瞬を生きて未来は夢に置き換える。
大切なことはいまの一瞬だ。