小諸の大島画伯夫妻と、庭師の和久井さん夫妻に会うためにクルマを飛ばして出かけた。途中、高速道路で多重追突事故に巻き込まれ、カマを掘られて2時間ほどロスをした。そのためゆっくり話そうと思った時間もなく、慌ただしい小諸行になった。和久井さんちの庭は、晩秋であった。熊のプーさんの手押し車には、暖炉で燃やす薪を積んでいた。
秋の光は、遠くなり、力が弱くなる。和久井さんちに落とす長い影も地軸の傾きがなす業だ。
私は前から約束していたインドネシアの小さな島で織った古布を夫妻に差し上げることが目的であった。手にしただけで心が温まる布であった。この布を和久井さん夫妻に持って貰いたかった。
もう、蝶も飛揚せず、カンパニュラも咲かず、暮色に染まった庭は、ここが秋の終わり場であることを物語っていた。昨年この庭で見たLタテハ蝶は今頃どんな姿をして生きているのか気になっていた。
婦人の手作りクッキーを食べてコーヒを飲み、帰りに奥さんから手作りのジャムをいただいた。
それから、クルマで5分程度の距離にある大島さんちを訪問した。
大島さんちは、中央の大屋根のうちと、右隣の小屋根2枚があるうち。絵には描かれていないけれど大屋根の左隣に新築したアトリエ兼画廊がある。愛馬大河君の馬小屋は小屋根2枚のうちの左上にあるうちだ。その小屋の左は馬場である。個々の庭にはクリンソウやサクラソウが咲く。
彼が20代の中ほど、私が30代の中ほどに、彼は新宿でアトリエ兼デザイン事務所を持っていた。アトリエの壁に立てかけていた深海に漂うジンベイザメを描いたエアースプレイの10号サイズ絵画が目に留まり、半ば強引に買い求めた。
最近まで何気なく見ていた絵であったが、近ごろはこの絵を見るたびに当時のことをよく思い出すようになった。私にとってこの絵は当時の記録であった。記録こそが記憶を引き出せる唯一の手段だ。
私でさえそうなのだから、この絵を描いた大島さんはもっとたくさんの記憶を引き出せるだろうと確信をした。そこであれから40年経過後のいま、この作品を作家の大島さんに返そうと思い立っていた。
大島さんは、いつもと違った様相であった。いつもは玄関の前に立って笑顔で迎えてくれるが今回は背中を向けてそわそわしていた。
それから『もういらなくなったの?』と私に声を掛けた。
彼一流の照れ隠しであった。目はうるんでいることが分かった。
しばらくして「この絵は、私の基点になった絵です。大事に保管してくれてうれしい」と涙がほほを伝わって流れた。
「里帰りです」と私は一言添えた。
『え?いいの?』と大島さんは涙声で言った。
当時の話に花が咲き、終わりはなかった。標高2000メートル高峰山の山郷は夕暮れになっていた。
もうすぐ落葉松が黄色になって全山が黄色に変わりますと夫人が遠くを見るような眼をして言った。
上の絵がその時の姿を現している。帰りは小諸ICから高速道路に上がった。
「所有は隔離、美の監禁に手渡す者我」という智恵子抄の一節がふと思い浮かんだ。売り絵でない作品は、作家に返すのが一番良い。売り絵を返されても困るだろうが。私は確信を持った。