昨日は誕生日であった。今さら誕生日などどうでもよいことと思っていたが、ふと考えが変わった。昨日は73年前に両親が私を生んでくれた日だ。過去を振り向いても何も変わらないがそれから今までどうして生きてきたかを考える日にすると、誕生日は価値が生まれてくると思った。
温故知新というのだろうか。年齢がつくり上げた錯覚なのか。よくわからないがそう思った。
執筆中の原稿は単行本半分くらいまでは書いた。いまのところ一日A4サイズ、フォント10.5PでWard8枚、本では16ページ分くらいの速度で書いている。
2月中旬の脱稿は実現しそうだ。仮タイトルは「デジタルマーケティングCRM」。
スポーツジムは通っている。おかげで筋肉が付いてきた。特に脚の筋肉は顕著だ。身体に負荷を掛けるウエイターの重さを、はじめの設定から自己流で2倍くらい重くしたがそれでも軽くなってしまった。止めたら元に戻ってしまうだろうと思いながらジムに通っている。
人間は瞬間という名の時間の中でしか生きられない。瞬間に生きることと刹那とは違う。人間は瞬間の喜怒哀楽を感じて生きている。
過去は記憶の中に存在する。個人にとってそれは大切なことだ。経験になるからだ。
昨日は誕生日。いまさら感慨はない。いまの一瞬を生きることが大事だ。結果ではなく途中が大事なのだ。産まれたことが大事ではなくどう生きてきたのかが大事なのだ。
しかし基準もなく賞もない。たくさん酒を飲んできたから大酒賞を貰えるわけでもない。何もない。
有ったけど無い。有ったということも無く、有ったということがないということも無い。
だから人間は、いまの瞬間+過去の記録で生きている。これからもいまの瞬間と過去の記録で生きていく。
記憶も記録もあいまいなものだ。記録があっても記録を否定してしまえばそれは無価値になる。
昨日は誕生日。私には両親の記憶がある。それを思い出す日が誕生日なのだと決めよう。そうすれば感慨の失せた誕生日も少しは価値が出てくるというものだ。