都心にも雪が積もった翌日、夕方になると快晴になった。私は、何時に始めようと午後10時まで執筆を続けていたが午後8時までに短縮することを決めた。
それから近くのジムへ行って午後9時まで、45分間筋トレを行う。帰宅は午後10時。それから夕食を食べて風呂に入り、ほっとすると翌日になってしまう。それでも午後10時まで執筆を続けるのとでは精神状態が違う。
星の王子様のように、夕日を一日に何度も見るわけではない。時間を確認して、冬至から日が延びたことを感じつつ西の空を眺める。実際には、見た目は夕焼けだが、スマホは夕焼けの赤い空を写さない。
太陽が西へ進むと、東京では夜のとばりが下りてくる。この時間、北海道の根室は暗闇だ。
人間は帰属するものが必要だから国家は必要だという定説は誰が決めたのだろう。鳥や蝶に国家などない。国境線もない。群れで生きている猿でもライオンでもシマウマでも国境はない。天国もない。あるのは青い空だけだ。
帰属することも国境線も皆、人間の脳がつくり出したことだ。
今日は朝からネットがつながらなくて困った。印刷もできなかった。何のことはない。ルーターとモデムのスイッチをOFF→ONにしたら回復した。こんなことも人間の脳がつくり出したものだ。
この脳が地球を支配した積りになって、一握りの人間たちが脳内欲望に駆られて戦争を起こしている。
「僕らは薄着で笑っちゃう」とイマジンに詞を付けたのは今はなき忌野清志郎だ。
少年は歯を喰しばっている。眼は悲しみに耐えている。
手は、力を込めてまっすぐに下ろし、「きをつけ」直立不動の姿勢をとっている。
足は・・素足だ。皮がむけている。立っている場所は・・・。
背負っているのは、男の幼児だ。
立っているのは、死体焼き場だ。この写真は「焼き場に立つ少年」とタイトルが付いている。写真を撮影した米軍カメラマン、ジョー・オダネル氏は米軍カメラマンとして佐世保から長崎に入った。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
10才くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶ紐をたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。
しかも彼は裸足です。少年は焼き場の渕まで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
少年は焼き場の渕に、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気づいたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それから眩いほどの炎がさっと舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついたのは。
少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと踵(きびす)を返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。」 ジョー・オダネル氏
日本では、戦争をやりたい政治家一派が権力を握って日本を戦前に戻そうと力づいている。戦争は戦争映画のようなものではない。戦争は個別に具体的に悲惨だ。
偶然に地球が生まれ、偶然に空気層がつくられ、偶然に月がつくられ、偶然に太陽との距離が適切で、偶然に生物がつくられ、偶然に恐竜が滅亡し、偶然に哺乳類が生きのこり、偶然に猿は歩きだし、偶然に脳が進化し、偶然に人間になっただけのこと。
私は思う。少年は何に対して直立不動の姿勢をとったのか。原爆を落とした米軍に対してか。敵愾心からか。弟を殺した戦争に対してか。戦争を起こした政治家と軍部に対してか。
太陽の下で、人は死に、人は生まれ、人は殺され、人は生かされ、政治家はいつでも戦争を考えている。
私は人間の愚かな脳に対して、歯を食いしばり、直立不動の姿勢をとる。