山椒の葉を見たとたんにナミアゲハの一令幼虫が目に飛び込んできた。鳥のフンに擬態して生まれてくる。神が決めた以外には信じられないことだ。
もう少し先の話かと思っていた。とはいえ山椒がひょっとしたら犬山椒かと思って調べてみたりもした。犬は非がなまったもの。とげの生え方を確認すると確かに山椒の木であった。葉の香りからも確認ができた。
山椒の鉢は、日陰の物陰においた。しかし産卵していた。どのように見つけ出すのか、不思議だ。
葉裏を調べると、さらにいくつかの卵があった。大食漢のアゲハはとても木の葉数ではもたない。飢え死にさせるのはかわいそうだ。
しかも山椒は刃先が茶色に変色する白絹病であった。園芸屋の誰かが水をあげすぎたことが原因だ。山椒は園芸技術が非常に難しい木なのだ。乾燥に弱く湿気に弱い。水を与えすぎも。乾燥させてもいけない木なのだ。
このまま鉢を庭に置いておけば、産卵したいアゲハ蝶が飛んできて必ず産卵をする。一部屋に三十人が住むようなことに必ずなる。葉は丸坊主になって幼虫も飢えで死ぬ。
有精卵に生命は存在しているのか。自分は生きていると認識しているのか。アゲハ蝶は成虫になり二週間後には姿を消す。無くなる生命に対して私は思い悩んでいる。形而上、形而下の線引きで答えは変わる。しかしこの二つは統合させて一つにしなければいけない。形而上も形而下もない。無なのだ。
だが、私は自らの行動でアゲハ蝶の個体を次に伝える役割を担った。考えれば、限りない繰り返しの輪の一つに手を突っ込んだことになる。交尾した雌アゲハ蝶の飛空間上に、産卵場所、つまり孵化した幼虫の食草をさっと置いたのである。この行為じゃ、卵はここに産みなさい。私が育ててあげますよという千手観音の仕業ではないのか。
だれも記憶しない。自分さえも忘れてしまうだろう。アゲハ蝶にも認識はない事実がここにはある。むなしいことなのか。
アゲハ蝶にとっては無意識下で私の掌に命を預けたことになる。いまは鳥のフンとして葉に留まっている。私は、いつのまにか自分も鳥のフンになって、お釈迦様の掌で留まっている気がしてきた。大して変わらないことだと思った。全く違うことであるとも思った。こんな悟り方はおかしなものだ。人間が悟れることはない。思考を続けていくしかできない。
いずれにしても鳥のフンに食べ物を食わせ大きく育て、アゲハ蝶の体内に産卵をする悪い蜂から守ってあげなければならない責任は負うことになったらしい。こんな姿に変えていくために。
つまりは、自分の記憶が未来を決定していることになる。私が60年前から蝶に関心を持ち、触れ、追いかけ、育てた経験が記憶になり、脳の海馬にある記憶が73歳6カ月になった今でも行動に駆り立て、想い方を限定し規定している。
私は蝶の輪廻に手を突っ込んだのではなく、自分自身の輪廻に手を差し込んでいるに違いないのである。だからこそ私は生まれ変わる予感がしてならないのである。
生まれ変わる私は、過去を記憶しているだろうか。記憶のない人間が次のアクションを展開できるだろうか。アゲハ蝶は、いま一令幼虫だが四令になると緑色に姿を変える。五令を経て、蛹化し、羽化をする。羽化した成蝶は、交尾をし、メスは産卵の食草を探す。ナミアゲハはカラタチ、山椒などの柑橘系しか食さない。
蝶は過去を記憶しているだろうか。育った場所を記憶して、この山椒の木を訪ねるかもしれない。しかしその山椒の木は未来を予測した人間が自身の記憶に命じられて置いたものだ。私の記憶をアゲハ蝶は経験していない。私が記憶していなければここに山椒は存在していなかった。
すべては私の過去が私を取り巻く周辺の未来を定めているのだ。かかる意味で人間は記憶する葦だ。記憶が罪をつくっていく。記憶から解放されることが罪から解放される最良の手段だ。罪とは他に影響を与えるすべての出来事と認識している。
罪から逃げるためには、新しい記憶をつくらなければいけない。しかし新しい記憶は新しい罪をつくる。結局は人間は罪から逃げることはできないのである。
それでも、そこから自由になりたいなら孔子の心境に達することだ。
心の欲するところを行えども則を越えず。
老境に達する前の若い時代のプロセスがある。
人間が生まれ変わるとは、記憶によって支配された自分自身から抜け出る事を指している。
それは鮮烈な経験をすることによって実現する。
海馬にたまった記憶データには存在しない鮮烈な経験を脳に記憶させることだ。
そしてその経験から新しい未来をつくっていくことだ。
脳と戦い、脳から解放されるためには、名著を読み、良きコンセプトを持ち備えた空間芸術を鑑賞し、時間芸術を堪能し、新しいアクションのもとになるソースを見つけることだ。
人間、最後は美意識だというのは、美意識は、ここにたどり着いたのちに進むべき方向を決める、あるいは腹を据えるために必要な最善の能力だからだ。
とはいえ、当面の課題は、三頭も孵化した大食漢の娘たちをいかに育てるかである。三頭のほかにも、これから羽化をする卵がいくつも産み付けられている。庭に山椒の木を置いておけば、・・・いやそうではない。交尾後の雌蝶が産卵場所を探す飛空間上に産卵場所を配置すれば、それだけで近未来は確実に想像がつく。
まずはとり急いで山椒の木をたくさん買い求めることから始めよう。
それにしても、中国の英雄項羽が詠った四行詩 「垓下の歌」の最終行が意味なく思い出される。
愚や、虞や、汝を如何せん。