洋画家、遠藤彰子の水彩画、「遠い日」を見た瞬間、足がすくんでしまった。私が何度も夢に見る、この世からあの世へ渡るん感の風景と同じであったからだ。オークションだったので、この絵だけは手に入れないといけないと思った。それはホテルのベッドで、半分眠りかけた時に見たものだから、目が覚めた時には憶えていなかった。それからしばらくして気が付いた。慌ててスマホをかざし、絵を見つけてオークションに参加してそれからスクリーンショットを行って絵を保存した。
私の夢の中に出てくる風景と同じであった。私の空想の絵は洋画家森秀雄が描くスプレイ画である。真っ白な壁にかもまれて、私は入寂の姿でいる。片側の壁には私の記憶が映し出されている。しかし、私には何の関心もない。
私はこれから何が起こるのだろうかとあたりをきょろきょろしている。壁には私の記憶が一枚ずつスライドのように流れている。
私はオークションで落札しようと思いながら執筆に専念して絵のことをすっかり忘れてしまった。そのために手にすることはできなかった。スマホの中には画像があってそれを見るしかない。
私が、私であるためには、それを証明することは、私の記憶しかない。記憶こそが私を私であるとしてくれるための唯一の証明になる。
私は私の記憶があるから私なのである。記憶こそが存在した証であり、その記憶を時々に思い出すのだが、それらはすべて終わってしまったことであり、私がたった今寄り添いながら一緒にアクションができるのは、たった今の記憶以外にない。
昔の記憶にさいなまれて、その重さを背負って生きている人は多い。
遠藤彰子の絵には、たくさんの女の子が自分の順番が来るのを待っているような図柄である。ここには記録の重さはない。
私の夢に出てくる入寂前の最後の絵にも、記憶には関心を持たない私として描かれている。やがて記憶などどうでも良いようになる。その方が楽だもの。
だが