「北の」を曲名に持つ歌謡曲を探したら約百曲の歌があった。それに「みちのく」とか、「津軽」を加えたら軽く百五十曲を超えるだろう。北へ帰る、北へ流れていくということばは、それだけで日本人には物寂しい響きと感じる特別の感性があるのだろう。
私も仕事で東北新幹線をどれほどの回数、乗ったであろうか。北へ行くモノ哀しい響きは、東北新幹線と津軽海峡を線路でつなぐことで、歌謡曲の世界以外にはなくなってしまった。写真の遠景に見える白雪の山脈が奥羽山脈である。
3月18日、私は、友と会うために大宮駅から遠く北へ向かった。スマフォのバッテリーを持ち込んでダウンロードした音楽を聴くのが途中の楽しみであった。最近はクラシックだけになってしまった。あとはテレサテンだけだ。彼女は本当に上手い。北の旅人はテレサテンがカバーしている。
新幹線は東京人のためにつくられたと思った。郡山で人が降り、福島で降り、残りの大半が仙台で降りた。途中駅から乗車する人はまばらだった。
北上駅で友と会って、そのまま予約してある料亭に向かった。
西暦2000年頃、某グローバル企業でCRM(カスタマー・リレーションシップ・マネージメント)を導入することになり、その担当責任者が、のちの友になった今回会うために出かけた彼である。
その後に、彼は外国の大学でMBAの資格を取り、これまた世界中を席巻している大企業に勤務した。その企業で友は、中国からオセアニアに至るエリアを任されて活躍していた。
出会った時から、お互いに気が合った。それから今日まで18年がたつが、しばらく会わなくても無事でさえいればそれでよいという関係が続いた。それでも会っていないとどうしているか心配になり一緒に奄美大島へ行ったこともあるし、酒も飲み、よく食べることもあった。
その友が、農業を始めることにしたとメールを貰ったのは昨年である。
私は何一つ心配していなかったが、精神の遍歴を聴きたかった。ここまでが、私が北の旅人になった前置きの説明である。
友はわずか一年の間に、大地に根が生えて、地元の空気を吸って、自信に溢れた根っからの地元人の香りがした。東北が好きで、東北人が好きで、農業が好きで、自然に対して畏敬の念をもって生きていると彼は精神の変遷を短い言葉で話してくれた。
人間は自然の前では弱く無力であることを思い知ったと言っていた。農家の人からいろいろと相談が持ち込まれ話に乗っているという言葉も表情も、ちから強かった。
往路の新幹線では、友の心境は、「陶淵明の帰去来辞」であるかと考えていたが、宮沢賢治のようになっていた。
3時間はあっという間に過ぎた。友もよく話し、私も話した。
温泉が無数にありますから、ぜひ、また来てくださいと言った。
暮色に染まる北上川を渡り、大宮駅までちょうど2時間の旅であった。空いていた座席は、東京へ戻る人たちを拾いながらいつしか満席になっていた。
人間にとって具体的なものは出会いと別れだけである。仕事も何もかも、残りはさほど具体的なことではない。土地に惚れ、人に惚れ、仕事に惚れ、自然に畏敬の念をもって暮らしていると聴いた言葉が耳から離れなかった。人間は哲学にたどり着かなければいけないとも言っていた。
私は次第に言葉がなくなり、黙って聴いていた。土地に惚れ、人に惚れ、仕事に惚れ、自然に畏敬の念をもって生きている暮らしが、わずか一年でここまで友を育てたのだと思って聴いていた。
きっと地元の人みんなが土地を愛し、人々を愛し、仕事を愛し、自然の厳しさに畏敬の念を持って暮らしているのだろうと思った。友はその環境に、つまりは東北の大地に育てられているのだと思った。友はそれを自覚していた。
スマフォからカッチーニのアヴェ・マリアが流れていた。私は素敵な友に幸多いことを祈った。