[山茶花や いのち椿に 渡し足り]
と、句を詠んだのは、本年2月7日のことである。山茶花からいのちを受け継いだ椿の花はすべてが落下した。私は落下した椿の姿を見て、時が未来に流れているのなら、時は何故に落下した椿の花も一緒に連れていかないのかと考えた。
そのうち落下した椿は姿を消すに違いはない。朽ちて消すか、掃除人の手で掃き集められるかのいずれかだ。そんなことはわかっている。モノがあれば運動が起こる。運動が起きればカタチは変る。落ちた椿の花は運動の結果、落ちたのであって、それを私たちは時のせいにしているのではないか。「時は流れていないのではないか」と思い至ったのはそんなわけである。
私が春先の京都の寺に、たとえば嵯峨野の祇王寺が好きで、燃えるような新緑のころによく出かけていたのは、椿の花が緑のじゅうたん上に一輪だけ落ちている姿と色調が好きであったからである。
だが、その姿は、利休が庭を掃除した後、枝をゆすって、数枚の葉を落として良しとすべしと言った造園の技術に感銘していただけであったと知ったことによって・・、いや、放置しておけば椿の花はこのように落下して散乱することを知ったことによって、日本的な造形の手の内が見えたようになって醒めてしまったのである。
このことは、私が百貨店を歩いても買い物客の気分になれないで、いつもこの売り場はこんな課題を抱えているだろうなと醒めた目で見つめてしまうことと同類である。
常日頃から、時間は流れていくと考えていたことの背景には、過去に流れていくと思い込んでいたことがあったが、時間は未来に流れていき、前に進んでいると、気が付いた時、万物はいつも時間に取り残されている存在だと思うようになってしまった。
けれども万物は運動していることで生まれ育って、運動していることで消滅していくのだ、言い換えれば、時は流れていないと考えると気が休まってくるようになった。
一方で、それは天動説のような話で、物理学を信じないガリレオ以前の時代思想ではないかと思い留めている自分がいた。
それを証拠に、わが家の部屋に障子を通して映る樹木の影絵は、ずいぶんとカタチを変えている。何のことはない。地軸が傾いていることが幸いして、地球上のある個所に四季が生まれ、日本もその恩恵を受け、いまごろは太陽が一段と高くなったせいで、こうした影絵が見えるのである。
こんな様子をみていると、地球の自転と公転があることで、地球上のどこに住むかで人間は感じ方が異なるのだと、そうして思考も異なるのだとあきらめてしまう己がいる。平たく言えば地球のどの緯度経度上で生きているかで生かされ方が違ってくる自分というやつであるということだ。
今朝は、早起きしてお茶の水にある井上眼科病院に行く。網膜の毛細血管が破れて血液が硝子体に浸入していた件で、根源の毛細血管の破れを止める光凝固(レーザー照射)を受けてきた。硝子体からもっと血液が引かないと見えない個所があるので2回に分けてレーザー照射をやりましょうということになり一回目を行った。
十数年前、初めてのレーザー照射は相当に緊張したが、何度も繰り返すと人間は慣れてくるものだ。いまは理髪店に行くような感じになってしまい、「はい!終わりました。はい、ありがとう」という会話で終わる。困ったものだ。
明日は、ドイツ車の中堅ディラーへ訪問し、新型車の顧客戦略打ち合わせをしてくる。いつまでたってもドイツ高級自動車の最前線に立っているのは楽しいことだ。
時と一緒に私が流れているのではない。私は行動しているのである。その結果として様々なリアクションが生まれてくるのである。
昔、パントマイムのヨネヤマママコ女史が、「服部さん。あなたが今宇宙の真ん中にいるのよ。あなたが死んだら富士山も山手線もなくなるのよ」って、強烈に言われたことを強烈に思い出している。
こう考えた方が人間にとっては幸福になれる。あなたが主人公なのである。自分の傍観者が自分であることはない。他人の人生の傍観者にしかなれない自分は、自分の人生に対しての主人公なのである。時は流れていない。あらゆる生物はアクションをすることでリアクションが得られるようにできている。