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宮沢賢治が作詞作曲した星めぐりの歌を北上市で農業をして、まるで宮沢賢治のようにして暮らしている知友に送りたい。星めぐりの歌は、正確には賢治の著作「双子の星」に書かれている詩に後日、賢治が曲を付けたものだ。
この曲には、一切の野心も邪心も作為もない。どんな曲にも作者の想いがあって、その情念が曲の中に入り込む扉をふさいでいるのだが、この曲には何一つ塞ぐものがない。自己主張もない。押し付けるものがない。だからスーと曲の中に入り込める。いや、曲の方が人間の体の中に入り込んで心を満たしてくれる。だから、寝る前に、この曲を流すと、すっと睡眠に入り込めるのだ。こんな経験は、初めてのことである。睡眠導入曲、ヒーリング曲などたくさんあって試してみたが、どれも目が覚めてしまう。
絵画では、宮城まり子さんが主宰しているねむの木学園の生徒たちが描いた絵がまったく同じ感覚であった。彼らの作品は細かいモチーフがたくさん描かれてた、まるでどこかの包装紙のようだが、自己主張も、邪心も、野心も、感じられないでいる。
星めぐりの歌を聴くと、宮沢賢治の豊かな心根と高い精神性を感じてしまう。それでいてスーと体の中に入って自分の体を洗浄してくれる。メロディはドレミソラの五音音階だ。だから親しみやすい。
北上も農繁期を迎えて、友は忙しくしていると思う。宮沢賢治がつくった星めぐりの歌を送ります。
星めぐりの歌 作詞作曲 宮沢賢治
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
投稿情報: 15:26 | 個別ページ
帰宅すると、長崎家庭裁判所から大型の封筒が届いていた。開封すると遺産相続の調停であった。兄が死んで、続いて嫁さんが死んだ。嫁さんは私より一歳年上である。子供がいないために遺産相続人の一人に私の名前が連ねてあった。
日本では戸籍制度がしっかりできているために、裁判所がつくった相続関係説明図があって、兄の身内名、兄嫁の身内名が一枚の家系図のようになってずらりと並んでいた。そのうえ、それぞれに生年月日と死亡年月日が記載されていた。
死亡日が 昭和20年8月9日となっているのは、長崎に投下された原子爆弾で死んだ兄のことである。この兄は私と誕生日が同じである。昭和19年にビルマの野戦病院で死んだ兄のことも記載されている。二人の兄はともに戦争の犠牲者である。
この家系図もどきには、父母の名前から出ていたので、今日は朝から午前中はオフイスで、家系図を手にして一人ひとりの人生を思い浮かべていた。
遺産を貰っても、他の兄も含めて死んだ兄弟の壮絶な人生を思い浮かべると、とても受けいれる気には、なれない。私の財布に入れば消費しておしまいだ。ものを買っても同じことだ。そこで兄夫婦にこう使ったよと言って一番喜んでもらえることは何かと考えた。本日、長崎家庭裁判所に電話を入れて、相続分を放棄し、兄夫婦が最後に入居していた施設にでも譲渡したいと連絡を取った。
すると、裁判所から譲渡先が受け入れると捺印した書類を作成して相続分放棄上申書と共に裁判所に送り返して欲しいと指示を受けた。老後施設に入ったことは電話連絡を受けて知っていたが、施設名までは知らない。
私は、また両家の家系図、イヤ、相続関係説明図を見ていた。
人間は時代の影響を受けて生きている。私は自分の知識にある親兄弟の人生史を追いかけながらその後ろ側に貼りついている時代が彼らの運命を決めたと確信した。人間はいつ、どこで、だれの元に生まれたかで、少なくとも大半のことが決まっていると確信した。突然、もしかしたら一人の人間が生まれ変わっているのではないかと、オカルト的な怖い考えにまで及んでしまった。もちろんオカルトではなくDNAのことである。
私の確信は、人間は同じことを繰り返えしながら生き続けている生き物であるということだった。万年のスケールで計れば違う確信も生まれただろうが、明治、大正、昭和、平成の4世代だけで見れば人間の行動にさほど変化はない。
人間は、生まれて、生きて、死んでいくものだ。子をつくり、子はまた親と同じことを繰り返しているものだ。
そんなセンチな気分になるほど、今日は寒く、朝は長袖の下着に厚手の長袖シャツを着て、その上に薄手のセーターをかぶり、おまけに薄いダウンジャケットを着て出勤したのであった。完全に防寒武装衣であった。
帰路、空いていたトラムの中で、一人席に座り、再び相続関係説明図を開いた。私は一気に現実に引き戻されたような気がした。何の現実だろうか。私は現実の正体を考えた。相続関係説明書ではなく、正しくは相続関係者生死一覧表であった。突きつけられた現実とは、お前も、やがてこうして死ぬんだよと囁く声のことであった。この声を私は耳にしたのであった。
私は、死ぬ直前にすべての人間が陥る「すべてのものに興味を失う瞬間」を三度の夢で体験している。この体験は、大変に重たいものであった。3回も同じ夢を見たのであるからだ。私の脳が作り上げたものだろうが、科学的には脳神経の接続が少しずつ切れはじめ、ある一線を越えた時に脳が感じる新たな指令なのだろうと、これまた確信をするようになっている。
その体験から引き出された覚悟に今の行動を併せるなら、相続関係者生死一覧表は、素の現実とでも言えば良いだろう。着色されていない現実と言ったらよいだろうか。人間の概念によってつくられた現実もどきと、素の現実、もしくは素の事実との差に戸惑ったのであろうと、私はトラムの中で考え付いたのである。
東京で最後に残ったトラム。自動車と並走する距離がわずかしかないので、渋滞がなく、駅間の距離がバス並みに短く、実に快適だ。
短い乗車時間に兄夫婦はこれからの過ごし方を少しは教えてくれたんだ。そう思いながらトラムを降りた。トラムのホームにも冷たい雨が降り、だれもが傘をさして縮込んでトラムを待っていた。
ホームに降りてすぐに私は大きなくしゃみをした。花粉症の時期はもう終わったのかなと思いながら冷たい雨が落ちてくる闇空を仰いだ。
投稿情報: 17:59 | 個別ページ
奄美大島、龍郷町、以前は龍郷村であった。龍郷はハブの紋様を使った大島紬をつくることで有名だ。他の柄と区別をするために龍郷柄と名前が付いている。私も一目で龍郷柄の大島紬は識別ができる。
龍郷町と言えば、最近では中国の大型クルーザーの寄港地になるかどうかが騒がれたが町民の意思でこれを断ったことで全国的に少しだけ名が知られるようになった。一度に6000人もの観光客を収容できる設備がないことがその理由だ。人口が約6000人の町に、6000人を載せた大型船が寄港し下船するわけだ。
寄港地を断ったことは大正解である。
龍郷町には、美しい入り江がある。サンゴ礁の波は静かで、実に穏やかな海である。その入り江に面したところに西郷どんの蟄居跡がある。安政の大獄による迫害で西郷どんは、奄美に蟄居する。1858年のことである。
1609年、島津藩は500名の武士によって南西諸島を占領した。目的は琉球政府を傀儡政権として裏から操って明との貿易で利益を得ようとしたことがそもそもの始まりである。
奄美大島は薩摩から琉球へ行く陸路の機能しかなかった。だか明の後にできた清の時代に、きびを使って砂糖をつくる技術が伝わると、陸路の機能だけであった奄美大島は、一瞬にして砂糖製造工場に変貌を遂げる。
奄美の民は、さとうきび以外をつくってはいけない。作ったら打ち首。さとうきびは全品を島津藩が買い上げる。さとうきびを島人が食べたら打ち首。出来上がったさとうきびの交換レートが搾取のレート表であった。こんな風である。たとえば黒砂糖10斤に対し鍋1つ。黒砂糖6斤に対し焼酎1升。住民は黒砂糖にして島役人に申告したわけである。
税に換算すると80%近い重税であると聴いたことを覚えている。これだけ搾取をすれば、島人は活きていくこともおぼつかない時代であったと言える。
このような時代に西郷どんは龍郷に蟄居したのである。
ここで、西郷どんは龍一族である佐栄志の娘「とま」と会う。龍郷とは龍の郷という意味であるからこの地域の長であったのだろう。
とまは愛加那と名前を変える。西郷どんが命名したかどうかは知らない。加那とは若い女性、または恋人の女性を指す。大和流(日本流)に言えば、愛か、愛子である。
西郷どんは、愛佳那とは呼んでいないだろう。ほぼ愛だと思う。愛佳那は、後世の人が名付けた呼び名であると確信する。
二人は結ばれ西郷どんとの間に菊次郎、菊子の二子が生まれる話は有名だ。だが、二人の時間は短かった。1858年から1862年の約5年間であった。
西郷どんは薩摩に戻ることになる。
西郷どんと暮らした家からすぐそばの龍一族の墓所に、龍愛子之墓と記した墓碑がある。ここに愛加那が永眠している。私はこの墓碑の前に何度も立ったことを記憶している。西郷愛子でもなく、龍とまでもない。龍家の一族として認められ、龍を付けて名は愛子とした。だから龍一族の墓所に葬られたのであると思う。
こういう話は、物語ができると独り歩きしていくモノだ。だが、事実は誰もわからない。歴史は現代人によってつくられているからだ。
この写真は2009年訪奄時に私が撮影したものだ。当時は奄美大島を旅する人は少なかった。それから約10年の時間が経って、奄美ブームになり、従来より驚くほどの格安運賃航空会社ができた。今までは東京⇔奄美の往復運賃は7万円台もしていたが、かくやすこうくうけんではかたみち7千円台になった。そこで一気に交通費負担が減少し観光地として脚光を浴びている。西郷どんのブームもあってこの墓に花を捧げる観光客も増えているだろう。あたりの風景も変わったかもしれない。
どの墓石にも、そこに永眠している人は、一つの人生物語を秘めている。島妻とは島での妻という意味だ。つまりは男性が島にいる間の一時的な妻という意味だ。
プッチーニ―の蝶々夫人も、いわば島妻であった。私は愛佳那の物語より、島妻という言葉があることに哀れを感じる。太平洋戦争も多くの島妻をつくった。
薩摩藩は琉球弧を支配し、人々を奴隷のように扱って富を得た。その富は明治維新の軍資金になった。鳥羽伏見の戦いで100万人の幕府軍に対し官軍は10万人に過ぎなかった。武器の差こそ官軍の勝利を導いた。その武器はどこから資金が出たのか。島津藩である。作家島尾敏雄氏は、だから島民の苦しみは決して無駄ではなかったと書いている。
沢山の哀しみを秘めた島であっても、外側からは何一つ見えない。若い人たちはグアムにしようか、沖縄にしようか、奄美にしようかと議論をして観光地を決めている。昼に青い空と碧い海とさとうきび畑を見て、夜になれば黒糖焼酎を飲んで三線の音を聴いただけではこのような物語にたどり着かない。沖縄にしてもグアムにしても同様である。
旅をするにはその地域の歴史を知ることが必要だ。それも官製の歴史ではなく、支配者側の歴史ではなく、庶民が語りついでいる庶民側の歴史を知ることだ。そしてそこに関与した自分の歴史を知ることだ。それが、人生とは、旅の寄り道でつないだものということになる。逆から言えば旅の寄り道をつないだものが人生なのである。
投稿情報: 16:44 | 個別ページ
画家の友人から中国土産の茶をいただいた。写真がそれだ。
本体は366グラム。実際に計測してみたがその通りであった。茶葉を押し固めてつくってある。重くて硬い。茶葉のかたまりをペンチで砕いて必要な量だけお茶を取り出す。長期保存に耐えられるつくりである。
壊してしまうのがもったいなくて手を付けていない。そこで、紋章のように飾っているのだが、それも長続きはしないだろう。
日本でのウーロン茶は缶入りやペットボトル入りで販売されている。おいしい中国茶は本当に旨い。日本で販売されているものとは全く別物である。その代り旨い中国茶は価格も高い。
ウーロン茶は中国語では烏龍茶と書く。烏龍はカラスヘビの意味だ。むかし、中国でお茶葉をつくる工場で手もみ作業をしていたら、それはそれは大きなカラスヘビが積み上げている茶葉の中から出てきた。作業員は驚いて逃げ、だれも、作業場に近づかなかった。
数日たって男性作業員が数人でカラスヘビを見つけ外へ追い出した。そのうえで作業場をくまなく探しもうヘビがいなくなるとわかった時点で作業員が戻り、再び、手もみ加工して茶をつくった。ところが茶を飲んでみたところ、味が変わっておいしくなっていた。皆が逃げている間に茶の発酵が進んだのだ。こうして発酵時間を長めてつくる烏龍茶が誕生したわけだ。
何故、昔の中国でカラスヘビが出てきたところで作業員が逃げ出したのか?
そういえば、35歳のころ、北海道積丹半島にある湯治場にグループで宿泊したことを思い出した。雪が残る春先のころである。4人一部屋の8畳間だと思うが、なんと朝目覚めたら大きなシマヘビが誰かの布団の中にいたのである。ギャーと悲鳴があって、その若者は飛び上がった。そしてヘビだ。ヘビだと騒いだ。予想していないことが起きたので、しかも寝起きだったので部屋にいる全員がびっくり仰天した。ヘビも寒くて布団の中に潜り込んできたようだ。
窓を見ると少しだけ空いている。誰かが暖房で部屋が温まりすぎていたので外気を取り入れるために開けたらしい。しかし驚いたのは人間よりもヘビの方であった。筋肉を思い切り使って胸から頭を上げて必死になって逃げ回り、窓の隙間から外へ飛び出していった。
驚いた人間よりもヘビの方がもっと驚いていた。全身が筋肉のかたまりとなって必死で逃げようとしていたその姿からも容易に想像ができる
恐らくこんな風景が昔の中国お茶工場で起きたのかもしれない。茶葉を蒸して手でもんで乾燥させるうちに、長い時間放置したことが幸いして発酵が進み新しいお茶ができたのである。
画家からいただいた中国茶は、ビンテージ物の普洱茶(プーアールチャ)である。
原産地は雲南省である。
中国茶は多種にわたっているがこのプーアール茶は黒茶に属している。
つくり方は複雑で一旦完成した緑茶の茶葉に微生物を加えて発酵させる。これを後発酵茶という。
プーアール茶は何度も飲んでいるので味はよく知っている。
良いものは熟成香が強い。
画家の話では、写真にある一枚の板で27万円くらいになるとか。
元々は画家が自分のファンである中国の富裕層からプレゼントとして積み重ねてある束を受けとったもの。プーアール茶のビンテージ物は高価だということは以前から知っていたものの、口にするのは初めてである。
画家からお茶をいただいた夜、二人で中国人夫婦が営む中国料理店で中国料理の話をした。彼の顧客は中国の富裕層なので、聞く話は面白い。
画家は、毒蛇コブラのスープを飲んだとか、アルマジロを食べてきたとか話していた。人間は使いきれないほどの金を持って使い放題やりたいことをやると、人間としての喜怒哀楽を失い、今まで食べたことのないモノを食べようなんて思うらしい。目の前で生きたコブラを捌くらしいがコブラ料理が約50万円、アルマジロ料理が約150万円くらいとか。
そんな価格を付けても、今まで食べたことがないものを食べたい欲求が生まれ、それがモノの貨幣価値を決めてしまうのだからすごいことだ。
話は、プーアール茶からコブラ料理に移ってしまったが、話を戻そう。画家の友人から中国茶をいただいた話はこれでお終いである。
投稿情報: 09:40 | 個別ページ
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