奄美大島、龍郷町、以前は龍郷村であった。龍郷はハブの紋様を使った大島紬をつくることで有名だ。他の柄と区別をするために龍郷柄と名前が付いている。私も一目で龍郷柄の大島紬は識別ができる。
龍郷町と言えば、最近では中国の大型クルーザーの寄港地になるかどうかが騒がれたが町民の意思でこれを断ったことで全国的に少しだけ名が知られるようになった。一度に6000人もの観光客を収容できる設備がないことがその理由だ。人口が約6000人の町に、6000人を載せた大型船が寄港し下船するわけだ。
寄港地を断ったことは大正解である。
龍郷町には、美しい入り江がある。サンゴ礁の波は静かで、実に穏やかな海である。その入り江に面したところに西郷どんの蟄居跡がある。安政の大獄による迫害で西郷どんは、奄美に蟄居する。1858年のことである。
1609年、島津藩は500名の武士によって南西諸島を占領した。目的は琉球政府を傀儡政権として裏から操って明との貿易で利益を得ようとしたことがそもそもの始まりである。
奄美大島は薩摩から琉球へ行く陸路の機能しかなかった。だか明の後にできた清の時代に、きびを使って砂糖をつくる技術が伝わると、陸路の機能だけであった奄美大島は、一瞬にして砂糖製造工場に変貌を遂げる。
奄美の民は、さとうきび以外をつくってはいけない。作ったら打ち首。さとうきびは全品を島津藩が買い上げる。さとうきびを島人が食べたら打ち首。出来上がったさとうきびの交換レートが搾取のレート表であった。こんな風である。たとえば黒砂糖10斤に対し鍋1つ。黒砂糖6斤に対し焼酎1升。住民は黒砂糖にして島役人に申告したわけである。
税に換算すると80%近い重税であると聴いたことを覚えている。これだけ搾取をすれば、島人は活きていくこともおぼつかない時代であったと言える。
このような時代に西郷どんは龍郷に蟄居したのである。
ここで、西郷どんは龍一族である佐栄志の娘「とま」と会う。龍郷とは龍の郷という意味であるからこの地域の長であったのだろう。
とまは愛加那と名前を変える。西郷どんが命名したかどうかは知らない。加那とは若い女性、または恋人の女性を指す。大和流(日本流)に言えば、愛か、愛子である。
西郷どんは、愛佳那とは呼んでいないだろう。ほぼ愛だと思う。愛佳那は、後世の人が名付けた呼び名であると確信する。
二人は結ばれ西郷どんとの間に菊次郎、菊子の二子が生まれる話は有名だ。だが、二人の時間は短かった。1858年から1862年の約5年間であった。
西郷どんは薩摩に戻ることになる。
西郷どんと暮らした家からすぐそばの龍一族の墓所に、龍愛子之墓と記した墓碑がある。ここに愛加那が永眠している。私はこの墓碑の前に何度も立ったことを記憶している。西郷愛子でもなく、龍とまでもない。龍家の一族として認められ、龍を付けて名は愛子とした。だから龍一族の墓所に葬られたのであると思う。
こういう話は、物語ができると独り歩きしていくモノだ。だが、事実は誰もわからない。歴史は現代人によってつくられているからだ。
この写真は2009年訪奄時に私が撮影したものだ。当時は奄美大島を旅する人は少なかった。それから約10年の時間が経って、奄美ブームになり、従来より驚くほどの格安運賃航空会社ができた。今までは東京⇔奄美の往復運賃は7万円台もしていたが、かくやすこうくうけんではかたみち7千円台になった。そこで一気に交通費負担が減少し観光地として脚光を浴びている。西郷どんのブームもあってこの墓に花を捧げる観光客も増えているだろう。あたりの風景も変わったかもしれない。
どの墓石にも、そこに永眠している人は、一つの人生物語を秘めている。島妻とは島での妻という意味だ。つまりは男性が島にいる間の一時的な妻という意味だ。
プッチーニ―の蝶々夫人も、いわば島妻であった。私は愛佳那の物語より、島妻という言葉があることに哀れを感じる。太平洋戦争も多くの島妻をつくった。
薩摩藩は琉球弧を支配し、人々を奴隷のように扱って富を得た。その富は明治維新の軍資金になった。鳥羽伏見の戦いで100万人の幕府軍に対し官軍は10万人に過ぎなかった。武器の差こそ官軍の勝利を導いた。その武器はどこから資金が出たのか。島津藩である。作家島尾敏雄氏は、だから島民の苦しみは決して無駄ではなかったと書いている。
沢山の哀しみを秘めた島であっても、外側からは何一つ見えない。若い人たちはグアムにしようか、沖縄にしようか、奄美にしようかと議論をして観光地を決めている。昼に青い空と碧い海とさとうきび畑を見て、夜になれば黒糖焼酎を飲んで三線の音を聴いただけではこのような物語にたどり着かない。沖縄にしてもグアムにしても同様である。
旅をするにはその地域の歴史を知ることが必要だ。それも官製の歴史ではなく、支配者側の歴史ではなく、庶民が語りついでいる庶民側の歴史を知ることだ。そしてそこに関与した自分の歴史を知ることだ。それが、人生とは、旅の寄り道でつないだものということになる。逆から言えば旅の寄り道をつないだものが人生なのである。