帰宅すると、長崎家庭裁判所から大型の封筒が届いていた。開封すると遺産相続の調停であった。兄が死んで、続いて嫁さんが死んだ。嫁さんは私より一歳年上である。子供がいないために遺産相続人の一人に私の名前が連ねてあった。
日本では戸籍制度がしっかりできているために、裁判所がつくった相続関係説明図があって、兄の身内名、兄嫁の身内名が一枚の家系図のようになってずらりと並んでいた。そのうえ、それぞれに生年月日と死亡年月日が記載されていた。
死亡日が 昭和20年8月9日となっているのは、長崎に投下された原子爆弾で死んだ兄のことである。この兄は私と誕生日が同じである。昭和19年にビルマの野戦病院で死んだ兄のことも記載されている。二人の兄はともに戦争の犠牲者である。
この家系図もどきには、父母の名前から出ていたので、今日は朝から午前中はオフイスで、家系図を手にして一人ひとりの人生を思い浮かべていた。
遺産を貰っても、他の兄も含めて死んだ兄弟の壮絶な人生を思い浮かべると、とても受けいれる気には、なれない。私の財布に入れば消費しておしまいだ。ものを買っても同じことだ。そこで兄夫婦にこう使ったよと言って一番喜んでもらえることは何かと考えた。本日、長崎家庭裁判所に電話を入れて、相続分を放棄し、兄夫婦が最後に入居していた施設にでも譲渡したいと連絡を取った。
すると、裁判所から譲渡先が受け入れると捺印した書類を作成して相続分放棄上申書と共に裁判所に送り返して欲しいと指示を受けた。老後施設に入ったことは電話連絡を受けて知っていたが、施設名までは知らない。
私は、また両家の家系図、イヤ、相続関係説明図を見ていた。
人間は時代の影響を受けて生きている。私は自分の知識にある親兄弟の人生史を追いかけながらその後ろ側に貼りついている時代が彼らの運命を決めたと確信した。人間はいつ、どこで、だれの元に生まれたかで、少なくとも大半のことが決まっていると確信した。突然、もしかしたら一人の人間が生まれ変わっているのではないかと、オカルト的な怖い考えにまで及んでしまった。もちろんオカルトではなくDNAのことである。
私の確信は、人間は同じことを繰り返えしながら生き続けている生き物であるということだった。万年のスケールで計れば違う確信も生まれただろうが、明治、大正、昭和、平成の4世代だけで見れば人間の行動にさほど変化はない。
人間は、生まれて、生きて、死んでいくものだ。子をつくり、子はまた親と同じことを繰り返しているものだ。
そんなセンチな気分になるほど、今日は寒く、朝は長袖の下着に厚手の長袖シャツを着て、その上に薄手のセーターをかぶり、おまけに薄いダウンジャケットを着て出勤したのであった。完全に防寒武装衣であった。
帰路、空いていたトラムの中で、一人席に座り、再び相続関係説明図を開いた。私は一気に現実に引き戻されたような気がした。何の現実だろうか。私は現実の正体を考えた。相続関係説明書ではなく、正しくは相続関係者生死一覧表であった。突きつけられた現実とは、お前も、やがてこうして死ぬんだよと囁く声のことであった。この声を私は耳にしたのであった。
私は、死ぬ直前にすべての人間が陥る「すべてのものに興味を失う瞬間」を三度の夢で体験している。この体験は、大変に重たいものであった。3回も同じ夢を見たのであるからだ。私の脳が作り上げたものだろうが、科学的には脳神経の接続が少しずつ切れはじめ、ある一線を越えた時に脳が感じる新たな指令なのだろうと、これまた確信をするようになっている。
その体験から引き出された覚悟に今の行動を併せるなら、相続関係者生死一覧表は、素の現実とでも言えば良いだろう。着色されていない現実と言ったらよいだろうか。人間の概念によってつくられた現実もどきと、素の現実、もしくは素の事実との差に戸惑ったのであろうと、私はトラムの中で考え付いたのである。
東京で最後に残ったトラム。自動車と並走する距離がわずかしかないので、渋滞がなく、駅間の距離がバス並みに短く、実に快適だ。
短い乗車時間に兄夫婦はこれからの過ごし方を少しは教えてくれたんだ。そう思いながらトラムを降りた。トラムのホームにも冷たい雨が降り、だれもが傘をさして縮込んでトラムを待っていた。
ホームに降りてすぐに私は大きなくしゃみをした。花粉症の時期はもう終わったのかなと思いながら冷たい雨が落ちてくる闇空を仰いだ。