中村忠二の鬚アブをオークションで落札した。プロとみられる人と競った。だがこの絵だけは入手しておかねばと思った。同時にプロは仕入れるのだからそんな高い競争にはならないと思った。落札し届いた絵は、額も絵も汚れがひどかった。入札時にこのことはアナウンスされていた。
入手し開梱した絵画を見て、よくぞここまで生き延びたものだと感じ入った。普通ならゴミ箱へ直行しそうな汚れにまみれた水彩画であった。
この絵は1957年8月に描いた絵である。年表を読むと59歳の作品である。この年、忠二は4つの別れをした。
一つは、自らが立ち上げた水彩連盟からの脱会である。つまりは志を同じとする仲間との別れである。
二つは、妻、伴敏子との離別である。
三つは、その原因をつくった絵の弟子であり愛人との別れである。忠二は愛人に破門状を送っている。気性が激しかったのだ。
四つは兄の子供、忠三との養子縁組解消による離籍と別れである。
木村品子さんが、忠二をエゴイストと指さすのは、こうした事実を伴敏子を通じて知っているからであった。
手元にあるひげアブを描いた前年1956年に描いた船の絵と、檻に入った熊の絵を読むと、自由になって旅たちたいと思いが伝わってくる。
忠二は、その思いを通すために1957年自分と縁ある人々との関係を断ち切って自分の過去を清算し、ゼロベースでこれから先を生きていこうと決心したのであろう。
忠二が、「私は完全に独りになった」と発言しているのは、束縛から解放された歓びの宣言であったのかもしれない。
そこで鬚アブの話に戻る。忠二は1970年代から蟲を好んで描いているが、70年代の蟲は抽象か具象かが分からないものが多い。ところがこの絵は極めて具象である。
髭アブをネットで調べてもハナアブしか検索されない。ハナアブは小さなアブで花に集まるからそんな名前が付いたものだ。実に弱弱しいアブなのだ。そして実はアブではなくハエの仲間なのだ。
そんな弱い蟲を、忠二は自画像に置き換えて描いている。それがこの作品なのである。蟲は尾をぴんと立てて戦闘的な構えをしている。写真ではわからないが黒眼はらんらんと輝いてる。細部を診ようと絵に近づいたら飛び掛かってきそうな殺気を感じ、思わず退いたのだ。同時に鳥肌が立って立ちすくんだほどである。失意にいたのならこんな絵は描けない。
それにしてもよく捨てられないで61年も生き延びたものだ。そして私が中村忠二を知ったのは、ちょうど2カ月前である。力強い絵と、一方で詩情をたたえている美しさに魅了された。偶然が重ならなければこの絵を入手することはなかった。
忠二の年表を得たために想像力を掻き立てることができた。
私は、このような体験を得て人生の無常を思い知る。出会いと別れこそが人間が抱える課題のすべてである。それにしても鬚アブの堂々さに頭が下がる。この絵の命を引き延ばすために、私が消えないうちに練馬美術館に寄贈しよう。中村忠二史のなかでそれほどのポジションを持つ水彩画なのである。