(中村忠二自画像)
中村忠二の水墨画が2点、春日のオフィスに届いた。50号のモノタイプではなく、私にとって好きな作品を届けてもらうように羽黒堂の品子さんに頼んだ。
一つ目の水墨画は、中村忠二が、20代のころ通信士として乘り込んだ船を思い出して描いたものである。
1956年カバフトにてと記載してあるが、カラフトのことであろうと。年譜を紐解くと画家が58歳の時である。この年は、忠二と妻の伴敏子が離婚届を提出し、水彩連盟喪にも退会届を出していた。
水墨画にしては奥行きが見える船の絵に心を惹かれ、惹かれた訳を調べたところ、あっけなく判明した。
上の油彩画は1933年(昭和8年)35歳の作品である。忠二は船の油彩画を描いていたのであった。品子さんが画廊の奥から持ち出して見せてくれた忠二の水墨画には、船を組み立てる船工場での製造風景、船の骨組みを詳細に描いていたのである。
小学校を卒業すると電子通信士の資格を取って、独り立ちする。だが芸術の道に進みたくて上京、20歳で日本美術学校(現在の芸大)へ入学。同窓生に林武がいたと年譜には簡略に記している。だが、貧困のため22歳で退学をする。
上の絵は、1936年、昭和11年、38歳の作品で練馬の風景を描いたものである。野の風景を色彩ごとに整理し準抽象化する手法はバルテュスの風景画そのものである。
忠二は、植物が生まれ、育ち、実りを迎え、枯れていく時間軸で整理することで、未耕地、発芽状態、発芽が終わって生育する状態の畑を並べて準抽象化した。加えて、手前に芽吹きを迎えていない樹々を並べた。忠二が描きたかったものは、寒さが止まない初春の田園風景で繰り広げる自然の循環、生命の不思議を描いたのである。
二つ目は、一つ目と同じ1956年に描いた「雨の檜原湖」。早描きの絵である。
湖の袰地にある檻に熊が捕われている。檻の外には餌の皿が置いてある。扉には鍵はない。熊が抱える苦悶は、生きるために檻の中に拘束されて餌をもらう生活を送るか、檻の外に出て自由に生きるが、代償として自分が餌を探さなければならないかを選択することにある。
熊の姿は自己の投影図になる。重要な役割をする小道具が檻と餌の皿と、鍵のない網戸である。ここでも忠二は普遍的なテーマを瀟洒に表現している。
中村忠二の個性は、非常識なほどの身勝手さにある。雨の檜原湖は、自己の個性に対する葛藤を表現したものである。非常識な身勝手さは、妻伴敏子と三回の離別を繰り返し、非常識的な貧困を創出した。それだけではない。画家たちの会の設立と脱退を繰り返し、突然に姿を消して長旅に出る。兄の息子を養子に迎えるが縁組を解消する。
だが、芸術家は自らの身勝手さと闘って、普遍的なテーマを持った作品を表現している。
何よりも、壁にかけて、醸し出る絵画からの空気は実にすがすがしい。作家に欲がないから作品は媚びていない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。この絵は幼稚園の子でもわかる。押し付けがなくてそこがうれしい。
日本でも一つの流儀になっている絵手紙は忠二が創始者であった。
老境なのか、成熟したのか、成熟しすぎたのか。私にはわからない。だが、忠二は、次々と絵手紙の本を出版する。花や虫や自然に枯れた文字を添えた絵手紙は、多くの人の心を打つ。
忠二が描く虫はどれも堂々とした自尊心と輝く命を与えられている。
ひげあぶ(1957年)
画家がたどりついた境地とは、あらゆる命は公平に存在する。自己もまたその命の一つに過ぎない・・・ではなかろうか。
まったく偶然の出会いで、私は一人の画家の名を知った。私の父親と一歳違いの・・・身勝手に生きて、貧困と孤独に陥り、それでも群れずに自由を求めて、絵を描くことだけを大いなる執念を燃やして生きてきた一人の画家を知った。
自らの個性と闘いながら普遍的な概念を非常にわかりやすく表現し続けた中村忠二に、真の芸術家として敬意を払う。