いつの間にか4月になり、いつの間にか、オフィスの庭には椿の絨毯ができていた。あと少しで椿は命をつつじとさつきに渡す。いつの間にか季節は変わり、人間を変えていく。達観してはいけない。人間は毎日今日を生きればよい。
大分前のことだが、蛇が好きになれなかった。トカゲはかわいく、ヤモリはもっとかわいいと思ったが蛇だけは好きになれなかった。友人が目ざとく草むらにいる蛇を見つけさっと捕まえて、私の方に投げつけたときには、何すんだと年甲斐もなく起こりつけるほど嫌いであった。
シンガポールで大きな蛇を首に巻き付け写真を撮って何ドルか払った時には体が固まって身動きしなかった。それでも怖いもの見たさで、毒蛇を調べ特に奄美大島や沖縄に頻繁に行くようになってから、ハブのことは誰よりも詳しくなっていた。
やがて、you tubeで、蛇を見るようになった。東南アジアの子供たちが近所の田に行って、大きなコブラを難なく捕まえて首に巻き、家に持ち帰る動画も見た
そのうち私は、蛇を見るとウナギなどと同じ食べ物として見ることができるようになった。これは私にとって大きな変わり様であった。どんなにあでやかな色彩を持つ毒蛇でも。この蛇は何人分の串刺しができるなと最初に思うようになった。恐怖感は感じなくなった。
もっと変わったのが読む本である。上の二冊は本日届いた古本である。近世の村落に関する本を探して、買い続けている姿を、昨年には想像することさえもできなかった。
それが今、夢中になって探している古本が、近世の村落と民のことである。私は民がどのように支配されていったかをこの時代の研究書を読むことによって分かりたいのである。それだけである。
ところが、昔の本は活字が小さく、しかも紙が劣化して茶色に変色しているから、いま使用中のメガネでは読めない。1.8倍のハズキルーペでも、文字は読めるサイズまで拡大してくれない。今は昔の易者がかざすような大型拡大鏡をかざして読んでいるのである。実は夢中になって読解しているのである。
世の中は知らないことだらけだと思う。そのことを知っていれば人間は謙虚になれる。謙虚になることができれば、知らないことをもっと知ろうと心が動く。知れば知るほどに知らないことが増えてくる。それをさらに深く知ろうと思うと必ず先人が調べた研究資料に突き当たる。探すほどに分からなかったことが分かってきだしと、歓びが増してくる。この循環が続く限り、人間はイキイキと生きていくことができる・・・と信じている。
私はたった今を行動している・・・と思っている。いつの間にかでよい。自分を見失わなければ、周囲はいつの間にかでよい。大切な人とは、いつの間にかでは困るけどね。
私にとっては、いつの間にか散ってしまった椿の花よ。しかしお前は一時一処にすべてを託して生きてきた。落花した今も椿は継続して生きて来年また花を咲かせるのだ。
私が知らなかった間に変わったからいつの間にかと思うのだ。知っていれば、いつの間にかではない。時間から逃げることができないすべてのものに与えられている定めを知る時、成長と衰退を、いつの間にかという言葉で濁してはいけないのだ。