目の手術をすることで網膜剥離は医師が小躍りするほど治った。網膜は何もなかったようにきれいになり、光は入る。手術をした左目だけ白内障手術も同時並行して行ったため光は蛍光色に変わった。そしてこれまで0.8~1.2程度あった左目の視力が0.01~0.03くらいまでに落ちた。それは見えるものが極端に歪んで見えることによる結果だ。
A4の紙一杯にごく太字で書いた、丸で欠けている方向を言う視力テストを目の前に出されても、欠けている方向が分からないというのが0.01とか0.03というレベルである。
そんな今日この頃だが視力が落ちたおかげで、いまを生きることとは何かを心底から学んだようである。これはすごくうれしい。
むずかしい話ではない。今は0.7~0.8を保っている右目だっていつ突然、網膜剥離になるかわからないのだ。そうなれば、白い杖にお世話になる。しかし執筆はできない。
このように一寸先は闇なんだから、いまを生きるしかない。
しかしよく考えてみると、人間以外はいまを生きている。鳥だって、昆虫だって皆同じだ。
そこで私は好きな画家の透明感あふれる絵の中で過ごしたいと思うようになった。作家に邪心があれば透明感ある絵は描けない。手元の絵をそんな視点で見つめなすと、中村忠二画伯の、はなあぶの絵、脇田和画伯の鳥と魚を描いた絵、そして永田力画伯の一部の絵しかない。
透明感がある絵とは、作者が作品にどう向き合っているかによって生み出されるものだ。ふとパリ郊外に住んでいる日浅和美画伯の絵は、どの絵も透明感に溢れていることを思い出した。
私は、いま日浅和美画伯と連絡を取り合っている。
時の軌跡 日浅和美画伯
日浅さんは、いまヨーロッパ各国から絵画が評価されて受賞している。
脇田和画伯が活躍していた時期の透明感ある油彩画も探している。
いまを生きること。こんな楽しいことはない。おいぼれでは困るけれど。