本日未明、首里城から火災。正殿、南殿、北殿を焼失した。
沖縄の人たち、首里城再興に携わった人たちの落胆ぶりはいかほどであろうか。
首里城の朱色を再現するのに、どれほどの時間と知力を必要としたのか。私は関係者から直接に詳しい話を聴いて、気が遠くなるような中身に驚いたものだった。首里城を再興したいと願う一心だけで、想いは石をも通し、不可能を可能にしたのだ。
琉球王国は首里城の城主、第一尚家が三山統一を図り生まれたとされる。1429年のことであった。しかしその権力基盤は危ういものであった。続く1469年、第二尚家はクーデターを起こし全山統一を図る、さらに先島まで侵略した。ついで奄美群島に侵攻し琉球諸島を全統治したと言われている。
そして諸藩の按司を皆首里に集め首里に住まわせた。徳川幕府が行った参勤交代と似た制度で、これにより中央に権力を集めた。また武器を捨てさせ、首里城がこれを集めた。その隙間を縫うように、島津藩が琉球に侵攻した。武器を持たない琉球の人たちはわずか500人の武士によりあっけなく占領された。
上の写真は、琉球王族第二尚家一族の墓、玉陵(たまうどぅん)である。島津侵攻を許した第七代尚王はここには眠っていない。
振り返ると、私は26歳の折、初めて王家の墓を詣でた。当時はそのまま誰もが入れる墓所であった。私は生きていてあの世に入ったのではないとか眩暈を起こすほどの印象強い経験を味わった。その思い出は今も消えていない。
日本代々の天皇陵(古墳)が土饅頭であるのに対し、石組みの建物であった。それから沖縄には何度訪ねたであろうか。仕事がらみで60回以上、個人の旅でもそれに近い。
首里は、王族や按司、官僚、それに武士が住んだ場所で、首里言葉が今でも残っている。
首里城を失ったことで、多くの人が心の中にぽっかり穴が開いてしまったさみしさを味わっている。再興を願うのみである。