また買っちゃったよ。オフィスに絵を飾るスペースはなく、もうやめようと思うんだが、ベッドに入って眠くなる前の数分をスマホでオークションアプリを開いていたら偶然この絵が飛び込んできた。速攻描きだが、うまいなあと思ってついポチをした。
ウオッチをポチすればよいものを入札ポチを押した。すると再入札してくれとメッセージが出てくる。言われるままにポチをし続けていたらあなたが再高値入札者ですとでた。
まあ、いいか、これほどうまい絵なのだから誰かが再入札するだろうと思って寝て、この絵のことは忘れていた。
昨晩、執筆を22時までやって、それからジムで40分トレーニングをして、それから帰宅して、遅い夕食を食べていると、おめでとうございますとメッセージが入ってきた。
あ、あの絵だ。と、気が付いてスマホでオークションアプリを開けて読んだら明治33年生まれの洋画家田中佐一郎画伯が描いた「京都河原町夜景」3Fの油彩画であった。
私はこの画家を初めて知った。すぐにオークションの出品者への支払いを済ませて、ネットで画家を検索した。下記は東京文化財研究所のホームページから田中佐一郎画伯を紹介した文章の写しである。
私は読んで、明治中期に生まれ、大正・昭和時代を洋画と共に生きぬけた一人の画家の生きざまと、登場する人物に大変に興味を持った。
眠気はなくなり、ネットで検索した記事を読み、2時過ぎまで思いを遊ばせていた。
ひょんなことで、あの時代を生きた実力ある洋画家と画家が残した古い絵が手に入ることになり、同時に奇遇な出会いをしたことになる。
このブログ、旅の寄り道は、人生は出会いと別れの連続でつくられている。出会いと別れに至るまでを一つの寄り道と考え、人生は旅のことだから、旅の寄り道と名付けた。
東京文化財研究所のホームページより
洋画家、独立美術協会会員の田中佐一郎は、2月9日午前3時52分、肝硬変のため東京・築地の聖路加病院で死去した。享年66才。葬儀は独立美術協会葬として12日文京区白山の大谷派寂円寺で行なわれた。法名は荘厳院釈一道。
明治33年10月24日、京都市上京区に染屋、田中常次郎の次男として生れた。はじめ14才の頃、円山派の国井応陽について運筆の手ほどきをうけ次いで阿部春峰の門に入り、更に大正11年22才の折、京都市立絵画専門学校予科2年に編入学し、そこで入江波光の教えをうけた。
大正14年絵専を卒業、7月上京して川端画学校石膏部に籍を置き、京都からの紹介で安井曽太郎に師事した。かねがね日本画の線描法や見方に疑問をもっていたところ、洋画のデッサンの研究を深めることによって、そのまま洋画家への道に直結して行くことになる。
大正15年には二科展に搬入したが落選し、第7回帝展に「立教遠望」が入選した。昭和3年代々木山谷に開設された1930年協会研究所に移り、ここで里見勝蔵や川口軌外、林武らの指導を受けた。
昭和4年から1930年展に出品し始め、翌5年には同展で受賞した。第16回二科展(昭4)に「波太」を、第17回二科展に「二人の女」を出品。昭和5年11月、1930年協会解散、続いて独立美術協会が結成され、同会に参加。翌6年1月第1回独立展に「裸婦三像」「窓際」「黄衣少女」を出品して独立賞を受けた。第2回独立展には無鑑査推薦となり「静物」「裸婦」を出品。昭和9年第4回独立展(「風景」出品)で会員に推挙された。
以来、独立展には死去前年の第34回展に至るまで、死病にとりつかれた昭和36年の第29回展にのみ不出品で、あとは1回も欠かさず毎年発表を続けた。
その間、昭和7、8の両年にわたって渡仏。昭和13年従軍画家として翌年まで中支へ、15年には再び南支、竜州に行き「転進」(昭16、第11回独立展・第2回聖戦美術展出品)等を描いた。16年11月には、国民徴用令により比島派遣渡集団軍報導部員として比島に向い、バターン半島総攻撃に参加、「コレヒドールの夜」(第13回独立展出品)、「キク高地」等を描く。同行部員に向井潤吉、栗原信、今日出海らが居た。昭和17年には泰、ビルマに従軍、更に18年7月から2ケ月にわたって南方作戦記録画資料蒐集のため、ビルマに行きマヤ山脈方面に取材した。翌19年召集解除されるまで、戦中の数年を記録画の製作に捧げた時期があり、しかも当時記録画の製作には消極的だった独立の会員の中では、率先してそれと取り組んだ一人で、そのこと自身、デッサン力に対する自信の程を物語るものであった。
昭和36年紺綬褒章を受く。代表作に、「漁夫(デッサン)」(大正12年頃)、「黄土」(昭12、第7回独立展)」、「辺土」(第8回独立展)、「風雨の出陣」(第12回独立展)、「モヨロの夢」(昭23、第16回独立展)、「もののけ」(第25回独立展)、「親鸞(連作)」(昭35・6、独立展・第4回現代日本美術展)等がある。
因みに、没後関係友人らによって編まれた「田中佐一郎作品集」(昭和42年9月1日発行・美術出版デザインセンター製作。-詳細な<年譜>が附載されている)に先輩林武が寄せた追惜の一文を抜粋しておくと
-「独立美術協会が創立され、画壇の想望を担って発足した時、最初に受賞したのが田中佐一郎君であった。爾来、田中君はその作品と、男性的な、正義感の強い人柄とで、独立の若い層に重い鎮めとなっていた。その作品は、彼の人としての純粋さから、おのずとにじみ出るものとも思われる。日本文化の伝統深い京都出身である彼に、生得的に備ったとも思われる色とマチェルににじみ出る、微妙なニュアンスで、これは、彼の作品を他と分かつ美しい特質である。それが優雅な、大らかな構想の上で、渾然とした絵画が彼の芸術だ。我々は、彼の仕事を見守りつつ来たのであったが、惜しくも、数年来宿痾の人となり、ついに帰らぬ人となったのである。