クラウドにストックしてある写真を整理していたら、2005年に訪問した島原市の本光寺に鎮座している首なし地蔵の写真に目が移った。
本光寺は、島原藩主松平家の菩提寺である。宮本武蔵の手やオランダ軍艦まで総がかりでやっと落とした島原の乱の後、京都の福知山に遭った深溝松平藩が、島原へ藩替えになり、以降島原は天領地となって九州のキリシタンに、にらみを利かせる役割を担ったのである。
本光寺の説明に寄れば、キリシタン一派が襲って地蔵の首を叩き壊したのだと言う。それを証明する古文書が存在しているかどうかを、私は現住職の祖父に当たる老師からは聴いていない。
佐々木小次郎と巌流島の決戦で勝利した後の宮本武蔵は熊本で五輪の書を書いたと記されているが、弟子の伊織は明石藩小笠原家に召し抱えられ、優秀な働きをしたらしい。
小笠原家は小倉藩に藩替えになり、伊織は小倉藩の家老にまで出世する。
伊織は宮本武蔵の養子になって、宮本伊織と名乗る。そして島原の乱では養父宮本武蔵に手柄を立てて貰おうと、キリシタン征伐に10人の部下を従えて出かける。
だが、原城の城壁を昇っている最中に落石に当たって骨折し、あえなく轟沈する。この話は古文書で明らかになっている。だが私は未確認だ。
幕府はオランダに頼んで軍艦で原城を砲撃する。これで島原の乱は終結した。幕府は生き残った民を調べ、キリシタンに関与したものは、みな殺した。
私は、島原市口之津郷土史を読み込んだが、島原の乱に関する記述はどこにもなかった。
世間では、キリシタン迫害の歴史しか知らない。知らされていないのかもしれない。
したがって首なし地蔵も権力によるプロタガンバかもしれないし、真実かもしれない。
sokodekakuti