意志を持続させる人間の力は強い。画家とは50年を超える交流がある。画家が20代で私が30代のころからの付き合いである。心を許し腹を開いて本当のことを話し合える親しい友人である。画家は、若いころには歌舞伎町にアトリエをもって絵を描いていた。画名を亜魚と名付け、そのころから亜魚(あお)さんと呼んでいた。その名の通り特別な青色をつくっていて人を魅了させていた。いまごろ50年前のことを知る人はそんなに多くはない。本当の名前は大島康紀画伯である。
その大島さんが、浅間山・山系の標高1000メートルあたりに住まいを求め、とは言っても廃屋を購入し、自分でリフォームを行い、立派な古民家に仕立て上げ、スタート時期には、東京に奥さんと一人娘を残し、住まいとは別個にアトリエと画廊を自分で建築し、本格的な洋画家の暮らしを始めたのである。
この地は、谷は深く、山は高く、標高2000メートルの高峰高原から、古代浅間山の第一噴火口跡である池之平湿原に通じる登山道の入り口付近にある。
前にこの地に訪ねた時、大島さんは、この地の美しさを愛で、オオムラサキが来るような郷土にしたいとつぶやいた。
それから大島さんの動きは速かった。地元に住む人たちに蝶の里に変えていこうと訴え続け、自分の構想を語った。
同時に、蝶の探索を始めた。すると絶滅危種の蝶が棲んでいることも分かった。
すぐに蝶倶楽部をつくり、Facebookに、蝶の情報交換サイトを開いた。まずは地元の小諸市で大反響になった。信濃毎日などの地元メディアが競って情報を取り上げ県民に告知した。
大島さんは、次々と看板を立てた。地元の人たちにやっていることのカタチをつくって見せたかったと語っている。絵を描くのはお手の物だから、看板もこうして作ってしまうのである。秋になると海を渡って遠く奄美大島や、喜界島、沖縄、台湾までわたり、越冬してまた日本列島に戻ってくるアサギマダラが中継地としてこの地を通るとわかった大島さんは、アサギマダラが好んで吸蜜するフジバカマを植樹し始めた。最盛期には庭に植えたフジバカマに400頭近いアサギマダラが乱舞すると語った。
話は、これで終わらなかった。
大島さんは、この地を広葉樹の森に変えてしまおう。木の実をつくる樹木がいい。そうすればリスが集まり小鳥がさえずり新しい生物の循環が始まる。憩いの公園をつくれば地元の人も、遠くから来る人も増える。新しい里山の構想ができると考えた。
大島さんは、広葉樹を1万本植えるプロジェクト構想をつくり小諸市役所に持ち込んだ。それが市長の目に留まり、新しい里山構想だと絶賛した。
これが大島さんの10000本広葉樹を植樹した後の、憩いの森全体像である。もう第一回植樹が終わった。なんと90人の人たちが集まり盛大に植樹会は終わった。
この谷も植樹の地域になるようだ、映っている人影は、カラス除けの人形だ。
谷の中腹には地下水を引いてたくさんのイワナを飼っている。あたりは起伏に富んで風景はすぐに変化していく。
この地も植樹の地となる。次の画像は地元でしりっぺた山と呼んでいる落葉松(カラマツ)の山だ。落葉松は黄色く染まっている。
最後に、大島さんは私にこう語った。
私の夢は、30年後、40年後に広葉樹の森が育って、小動物が集まり、地域の人たちにとって憩いの森になってもらえることです。
私は、帰京すると、すぐにAmazonから、フランスの作家ジャン ジオノが書いた絵本、「木を植えた男」を大島さんに送った。この本は創作物語だが大島さんは、実際に行動しているのである。