那覇で2時間くらい時間が余るんだけれど、どこを観たらよいかと知人から相談を受けることがある。私が沖縄へ幾度も行っていることを知っての質問である。
2時間なら私は2箇所をお薦めする。一つは首里の玉陵。たまうどぅんと発音する。
琉球王朝尚家の墓所である。22年前、沖縄の知人に案内されて玉陵を初めて訪れた時は、夜半から降っていた雨が止んだばかりの静かな朝であった。小さな門をくぐり抜けた瞬間、ここはこの世ではないと思った。知人と二人で死の世界に迷い込んだ気になった。実にすがすがしく永遠の命を与えられた気がした。そういえば沖縄の知人は、死ぬことは怖いことではないと言った。なぜなら死んでいる人と生きている人とは通い合っているからだと言った。
私はその後、幾度も沖縄を訪れて、あるとき清明(しーみー)に参加したことがあった。亀甲墓前の広間で、たしか「うとぅみさびらー」とか言って墓地の扉を開けた。それから用意してきたお重箱を開けて仏前に供え、生きている人は故人の思い出を語り始めた。重箱の料理を食し、三味線を弾いて唄い、踊りを舞うた。重箱の料理の詰め方にも作法があると知った。
最近まで琉球弧の島々は土葬か風葬であった。その後、白骨化が進んでいる遺体を掘り出し海水や酒で骨をていねいに洗い厨子甕に納骨をする。この儀式を洗骨という。甕には夫婦で入るのが習しで、息ができるように甕に穴を開けていた。この作業は女性が行なうために余りにも過酷な葬制は、衛生上好ましくないと火葬になったが、こうした葬制は沖縄文化の影響を色濃く受けた奄美群島与論島などではいまだに残っている。
玉陵は亀甲墓の大型版と思えば理解は早い。死んでも生きている人と交流ができるという死観は唯心論に近い。
二つは牧志公設市場である。牧志市場の元気さといったら驚くほどである。ここに人間の原点を知ることができる。人は何があっても生きていかなければならない存在なのである。その原点は食にある。
私は那覇にいて2時間の時間があるのなら玉陵と牧志市場の二つを観ることを薦めている。たった二つを観るだけで沖縄人の死生観を知る貴重な体験をすることができる。
もしも夕方の便まで時間が8時間あるというなら以上に付け加えてまずは首里で金城町の石畳を散策することをお薦めする。
石畳の坂を降りると赤木と拝所(うがんじょ)の小さな看板がある。首里は首里城に仕えた人々が住む由緒ある地域である。首里に住む人々はそれだけで誇りを持ち、胸を張って生きている。首里の言葉は他の地域と比べて品格があり、聞いていてどこかが違うことが私達沖縄の方言を解せないものたちにも伝わってくる。凛々しさがあるのだ。その凛々しさこそが首里人の誇りの源になっている。
観光客は守礼の門をくぐって首里城を観て帰るけれど、太平洋戦争で地形が変わるほどの艦砲射撃を受けた首里にあって首里の人たちは戦禍から生き残った赤木の巨木たちと沖縄教の拝所をこんなところに隠しているのだと思うと、なぜか首里人の根っこに触れるようで胸が痛くなる。
それからクルマで約一時間、読谷村の座喜味城へ行くと良い。沖縄の城(ぐすく)のなかで私は座喜味城が一番美しい城だと思う。15世紀の初頭、護佐丸によって築かれた名城として名高い。
ついでに近くにある「やきむんの里」(焼き物の集落)も良い。
やきむんの里に入ると右側に赤い屋根の工房が見える。ガラス名工である稲嶺盛吉の工房である。稲嶺盛吉のガラス食器は一度は見ずして沖縄ガラスは語れない。
さて、おなかが空いたらR58号線を那覇へ戻る途中、伊良皆の信号を右折し、残波岬へ向かうと右側に沖縄そば「花織」がある。花織そばは、そうきと三枚肉が乗った沖縄そばで、とにかくおいしい。花織そばを食べるために那覇から出かけてきても損はないと思いながら私は食べる。
もしも、もう一泊したいというなら、宿はロコイン沖縄を薦める。礼儀正しい社員の対応もよいし、到着するとすぐに冷たいお絞りを出してくれることもよいし、チェックアウト時間が11時というのもありがたい、朝食がホテル内の高級和食(とうふ料理)の職人が作っているので旨い。松山にあるのでどこへ行くのも便利なのだがこのビジネスホテルの、サービスの本質は3つの枕にある。
ロコイン沖縄では種類の違う3つの枕がベッドにある。白いカバーの枕が2つと、黒いカバーの枕が1つ。中身がすべて違う。宿泊者は自分の好みにあった枕を選択できるので、枕が違って眠れなかったことがロコイン沖縄に泊まってから一度もない。超高級ホテルで最高のおもてなしという話はいくらでも聞いているが、ビジネスホテルでこれだけおもてなしをしてくれるホテルを私は日本全国と比較して他に知らない。
沖縄文化はおもてなしの文化である。島津の役人をおもてなし、中国からの冊封使をおもてなししてきた文化が根強く残っている。だから沖縄は今でも心を見せずにおもてなしをすることができる。私達はそれをそのまま鵜呑みにしてはいけない。
誰と会ってきたのか、どこを観たのか、沖縄の何を知っているのかで、沖縄はまったく違った面を見せる。沖縄ほど多面的なところは日本では他にはない。沖縄はたくさんの深い哀しみを秘めているし、たくさんの情愛を持っている。たくさんの美しさを持っているし、たくさんの固有文化をもっている。しかし沖縄人はすべて拭い去って誰にも真実を見せない。
観光客は美しい海や、おいしい泡盛や、琉球舞踊、そして三味線の音色に魅せられて、沖縄はいいところだと酔いしれて帰っていくけれど、もっと沖縄を知ることが大事だと思う。
レンタカーに乗ってナビゲーションシステムを使えば沖縄が基地の島であることが良く分かる。復帰した当時、沖縄県人口100万人のうち売春婦が5万人もいた事実で、庶民の暮らしがいかに困窮していたかが分かる。
沖縄を知ること。沖縄の人々と深く接して沖縄の心を知ること。そうして沖縄を訪問すると私達は小さなおもてなしにも感謝をすることができる。その感謝が伝わった時に沖縄の人は心を開く。すると本当の沖縄が初めて見えてくる。
沖縄人は、リゾート地に遊びに来た人にも、史跡を巡る旅に来た人にも応じたおもてなしを用意している。だからだれもが沖縄を好きになるのである。しかし沖縄は常に多面的で奥深い。
私の知人が沖縄でマヤンというシャンソニエを経営していた。知人の古くから友人がこの店を訪れ、帰る時に次の句を残した。
「沖縄の 心も知らで 酔いしれて マヤンの夜の 唄声楽し」
旅人はいつでもどこでも土地の心を知らないで酔いしれて帰る存在なのかもしれない。