あと二ヶ月も経てば、南の島では桜が開花する。ここ奄美大島の本茶峠は緋寒桜の名所として知られている。
奄美大島は平坦な場所が少ない深い山の島である。今でこそトンネルが開通して島人は簡単に町や村を行き来できるようになったが、それ以前は峠を越えて隣町に行ったものである。
私が初めて奄美大島を訪ねた昭和47年(1972年)には、まだトンネルは一つもなく、隣町に行くには峠を越えて行った。
笠利町に住む友人の話では、急病人が出ると大八車に病人を乗せて名瀬市まで本茶峠を越えて行ったのだそうだ。峠の頂き辺りで朝ぼらけになり、あたりはようやく明るくなるのだが、それまでは真っ暗闇をただ病人の安否を気遣いながら重い大八車を引いて歩く姿を思い浮かべると、あの頃は本当に大変だったと語る。
そうかもしれない。クルマでさえ息切れがする急な坂道に病人を乗せて引っ張る大八車はさぞかし重かったろう。
今は笠利と名瀬はトンネルでつながり、本茶峠をわざわざ越す人は少ない。
けれども緋寒桜が咲き始めると、島人は本茶峠を話題に出す。
奄美の画家で知られた田中一村も、毎日のように本茶峠を歩いた人であった。
田中一村は大島紬の技工として爪の先を灯すように暮らしてお金を貯め、貯まると仕事を休んで絵を描いた。
この暮らし振りは「田中一村」で検索すると見つかるからぜひ探して欲しい。
わずかしかならない労賃を蓄えるために野の草を米の溶き汁のような、おかゆに混ぜて食べた。そうして描いた絵はほとんど誰からも理解されなく野垂れ死にのように死んで行った。
いま、作品は田中一村記念館と名付けられたそれは立派な記念館で展示されている。
生きている間に、せめてよき理解者がいれば一村は悲惨な暮らしもしないで済んだろうに後に光を浴びる芸術家の多くはその作品の出現が早すぎるためか、理解者がいないままに不慮の死をたどることが多い。田中一村もその一人であった。
緋寒桜は野の桜である。京都の庭園を艶やかに彩る桜ではない。咲いているのかも分からないほどひっそりと咲く桜である。奄美ではすすきと一緒に咲いている桜である。
大和の桜は光を反射して輝くが、緋寒桜は光を吸収して光り輝かない。おかしなことに南の島で咲くのに寒い場所から咲いていく。本茶峠の頂上から次第に麓に花は降りてくるわけである。
本茶峠を訪れる度に、田中一村はどのような気持ちで緋寒桜を見ていたのかと思う。
彼が歩いた峠道、確かに毎日歩いたと本人が日記に記しているから、歩いたのであろう。でもその痕跡は今なく、日記に描かれていることを想像するしかないのである。
この家を覗いても一村の姿はない。確かに暮らしていたはずなのに一村の姿は見えない。ここも想像するしかない。
昔に確かにいた人が、いた場所にいないことで私はいつもとてつもない寂しさに襲われることがある。その寂しさは私の想像力のせいかもしれないし、歳相応に多くの別れを経験しているせいかもしれないのである。