私にとって熊本の旅は通い慣れた旅程である。かつて熊本の企業を大改革するための仕事を受け持っていた。毎月、時には月に3回も通うことがあった。しかし今回の旅行は仕事ではない。親しい友人達と週末の2日を利用した親睦の旅である。
私以外は熊本へ行ったことはないと判って熊本へ行こうと話はすぐに決まった。当然ながら熊本を詳しい私が幹事をすることになった。
熊本では阿蘇と天草を見たい。同行者はそれを実現しようと企画した。熊本空港と天草空港を航空機で結べばできないことはないと分かってはいたが、たくさんの観光地を走り回ることだけが旅行ではない。幹事はそのアイディアをさえぎった。
私が旅を企画する時は必ず起承転結をつくる。最後の見せ場は消え入るように、旅を閉じるように仕組む。
幹事は熊本の旅の「起」を阿蘇山に置いた。
大昔、阿蘇山はとてつもない大きな山塊だった。大噴火が起きて壮大な噴火口ができた。この噴火口が阿蘇をぐるりととりまく外輪の山々である。左の写真の遠景にある山脈が噴火口の一部でこれが外輪山である。外輪山はぐるりと回って円周になり噴火口を形作っている。写真手前の丘は噴火口の中に隆起した米塚である。写真をクリックするとイメージがより掴める。
さて、広大な噴火口に水がたまり、悠久の時を経て大きな湖になった。また悠久の時が過ぎてやがて外輪山の一箇所が大決壊をし、湖は熊本市のほうへ怒涛のごとく大流出した。そしてまた悠久な時が流れた。外輪山の内側中央に再び火山隆起が始まった。これが今の阿蘇山(阿蘇五岳)である。
阿蘇は日本の風景とはまったく異なる大陸的な壮大な風景を持っている。言葉に壮大か大の文字を使わないと表現する私も納得できないほど時空間のスケールが格段に大きい。
レンタカーは、かつて大決壊をした外輪山の切れ目から内輪に入り、阿蘇五岳を目指す。
噴火口近くには万一の噴火を恐れ、トーチカが用意されている。
秋風は冷たく、噴煙には毒ガスも混じり危険情報のアナウンスが繰り返えされている。
とてつもない壮大なスケールで熊本旅行の「起」は始まった。
熊本の「承」は黒川温泉に置いた。黒川温泉は外輪山の外側にへばりつくようにしてできている温泉旅館の集落である。
団体旅行が減って個人旅行にスイッチした時代に黒川温泉郷は個人を対象にした旅館に切り替えた。
写真を2枚だけ掲載した。黒川温泉郷の素晴らしさを堪能して欲しい。
熊本市内に予約してあるホテルをキャンセルしてもここで宿泊しようと同行者は駄々をこねたが願いは叶えなかった。土曜日に飛び込みで四人の一元客を受け入れる余裕は黒川温泉にはない。もう一年前からの予約で週末はどこの宿も満室なのである。
私達はどこでも三軒の温泉に入れる木製の温泉入浴札を購入し旅館の露天風呂に入った。
阿蘇は大噴火をした噴火口の外側にまでこんな美しい温泉の恵みを今の世に伝えている。
露天温泉には紅葉が舞い散っていた。私達はひらひら舞い落ちる紅葉を心のそこから楽しんだ。誰もがもう一度黒川温泉を訊ねて宿泊しようと思ったに違いないだろう。
旅の企画にはどこかに見ていないもの、味わっていないもの、体験しなかったことを残さないといけないのである。名物を全部食べて、観光地を全部見て、満喫した旅は余韻がない。満腹してしまった旅はゲップが出ておしまいである。同行者は後ろ髪を引かれるなと余韻を口に出し黒川温泉を後にした。今度は家内を連れてこようとも言った。幹事は内心でやったねと叫んだ。
帰りは外輪山の嶺を大決壊があった地点近くまで走った。左に阿蘇五岳が見える。レンタカーは大観望に立ち寄った。ここにも大の字が躍る。ここから観望する隆起した阿蘇五岳は美しい。この日は阿蘇にたなびく雲に西からの夕日が当たっていた。枯草は黄金色に光り、風に揺れてまるで巨大な生き物がうごめいているようにも見えた。黒川温泉の効果で疲れも消え、四人は口もきかずに茫々然と立ち尽くし、遠く外輪の山々の手前に聳え立つ五岳を見つめていた。
熊本の「転」は熊本市内に移り食である。馬刺しは熊本と長野が有名だが、熊本馬刺しの原産地は北海道である。熊本で食するならば私の推薦は地元で取れる「ひらめ」と「あなご」である。そして日本酒は香露である。ひらめをとことん熟したものは、べっこう色に輝き、この握り鮨はただ旨い。とはいえ馬刺しも捨てたものではない。写真左下の白いかまぼこ状のものは馬のたてがみ部分の肉である。
そして翌日は旅の締めくくり「結」を迎えた。
熊本市の北東に立田自然公園泰勝寺跡がある。ここには細川ガラシャの菩提所でもある。
細川ガラシャは明智光秀の娘で名前を玉子と言った。1578年織田信長の仲立ちで細川忠興の正室となる。玉子が16歳の時である。
20歳の時に父明智光秀が本能寺に信長を攻める。後世で語られる日本史の大転換事件だ。本能寺の乱がなければ日本史は大きく書き換えられた。
玉子は忠興から離別され山中に幽閉される。後に豊臣秀吉の許しで復縁し、キリスト教の信者となってガラシャの洗礼名を受ける。秀吉は光秀の乱が起きたからこそ天下を握れた。秀吉にとって光秀はターニングポイントを作ってくれた大恩人であった。
1600年は「第一回関が原の戦い」の年だが、豊臣方は戦いに当たって裏切りを防止するため、大名諸侯の夫人たちを人質として大阪城に入場せよと命令する。
歴史に翻弄され続けたガラシャは、その要求を拒んで住居に火を放つよう命じ36歳の命を絶つ。
辞世の和歌を残している。「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
泰勝寺跡は秋の気配が色濃く静かな朝を迎えていた。
こうしてわずか1日半の熊本旅行は起承転結を重ねて消え入るように終わった。
私の旅は、一泊二日の小さな旅でも最終日は観光を入れない。だから宿で静かに余韻を楽しみチェックアウトからそのまま空港へ向かう。
この旅行では最終日に一つだけ見所を加えた。歴史小説でしか存在しない過去に生きた人の菩提所を見ることは、新たな感慨を生むことができる。
同じ時代に生きた人の手で、手厚く葬られた事実を目の当たりにするだけで感慨はひとしおである。それを以って結とした。
墓を見てどうするんだ。水前寺公園も夏目漱石も五高の建物も金峰山も見ていないじゃないかとガイドブックを広げて催促をする同行者もいたが、コースを決めることは幹事専任事項と言って聞かなかった。
その彼が静かに終わる旅はいいなあと口にした。
そうなのだ。和食でも西洋料理でもコースは静かに消え入るように終わるのが良いのだ。
振り返れば大阿蘇の壮大なパノラマからこの旅は起こり、それを承けて外輪山の外側にある黒川温泉で湯に浸かり、転じて熊本市で土地の食を喰らい、戦乱の世に武将の娘として生まれたばかりに翻弄されながら最後はむなしい人生を拒絶した一人の女性の菩提所で旅を終結させるこの華麗なコースに、もう追加料理は不要である。
私は一つの旅で全部を見ない。全部を食べない。だからまた同じ場所に行くことが起きても新鮮に新たな旅をつくり、まとめることができるのである。