不機嫌な上海
上海蟹を食べに行きましょうと友人と話が盛り上がった。その友人と久しぶりに会った折に年末でANAのマイレージが大きく切れてしまう話になった。私もそうだと言った。それで一気に上海蟹の話になった。しばらくしてメールが届いた。「天皇誕生日をはさんだ三連休なら時間がとれます。上海蟹を食べに行きましょう」羽田空港から上海虹橋空港へチャーター便が出ていることを知って、友人の秘書がすべてを手配した。私は当日起床してから、二組の下着セットと一枚のシャツをバックに放り込み、あとはeチケットとパスポートと、それから一枚のカードとわずかな現金とそして愛用のデジタルライカを詰めて羽田へ出向いた。どこに泊まるのか、どこを観るのか。出発前にはまったく話題にならなかった。
虹橋空港は国内線空港であった。アジア特有の薄暗い到着ロビーに着いて私はいやな予感がした。アジアの空港はいつもタクシーでトラブル。タクシーを待つ列が三百メートル以上も続き、先頭では一人の男が顧客を捌いていた。三十分ほど並んでようやく我々は列の先頭に立った。男は我々を見ると駐車場から出てくるタクシーの列ではなく、別の場所に停まっているタクシーを指差しあれに乗れと命じた。幾人かの男が一台のタクシーを取り巻いていた。「きたな」とすぐ思った。「メータータクシーだ」友人は男に厳しく言った。男はあれだと威圧的に再びクルマを指差した。たむろしていた男が飛んできて二人のかばんをつかんだ。別の男が運転席に体をかがめてトランクを開けた。かばんをつかんだ男が「どこに行く」と日本語で聴いた。ホテルの名前を告げた。すると「二百元!OK?」と大声でこれも威圧的に言った。気の弱い旅行者ならOKと言ってしまう剣幕であった。我々はかばんを取り返し、顧客を捌いている男のところへ戻った。「メータータクシーだ」。男は凄い形相で「あのクルマだ」と、件(くだん)のクルマを再び指差した。友人はNOと厳然と言った。すると男はタクシーを待つ列の最後部を指差した。俺の指示に従わなければここでは乗せないということであった。「駄目だ。メータータクシーだ」友人は一歩も下がらなかった。
昔、釜山空港から慶州とタクシーに告げたことがあった。私が甘かった。きちんとホテル名まで言えばよかった。ただ慶州とだけ告げて価格交渉は成立した。運転手は高速道路の慶州出口でクルマを停め、慶州に着いたとドアを開けた。「ここではない。慶州○○ホテルだ」と言った。すると不良タクシーはそれなら料金はいくらだと、成立していた料金の二倍近い金額を吹っかけてきた。泣き寝入りをしたらこいつはまた同じことをやる。「ここも慶州だが、慶州○○ホテルも慶州だ。高速道路出口で降りるとは言っていない。ホテルへ行け」と日本語と筆談で闘った。 筆談と言っても大きな楕円を描いて慶州と書き、左側に小さな丸を描き、右側にも小さな丸を描いてHOTELと書いただけのものである。左側の丸はここでHOTELはここ。両方とも慶州だという筆談である。
ついに虹橋空港の男は別のタクシーを指してあれに乗れと言った。そのタクシーは駐車場から出てきているメータータクシーであった。我々はタクシーに乗りながら勝ったと思ったが、そうではなかった。別の観光客が不良タクシーのトランクに荷物を詰めていた。次の鴨がやってきただけのことであった。メータータクシーは自動車専用道路を縫うように走り、たった三十八元でホテルへ到着した。
ガイドがやってくる約束時間は午後三時であった。それまでの一時間余りを我々は近くの散策に使った。ところが散策にはならなかった。ホテル敷地から一歩出るなり、いきなり六・七人の男女に取り囲まれた。若い女性もいた。中年の女性もいた。老人もいた。みな普通の人であった。「にせものブランドあるよ」と日本語で言った。みな厚紙に本物のブランド品の写真を貼り付けた手製パンフレットを持っていた。誰一人、離れずに食い下がってきた。彼らは人を待つように手製のパンフレットを手に持って静かに立っていた。観光客が通ると態度は豹変した。「不要」と我々は言った。しばらくするとみな離れていったが、次の集団がまた押し寄せてきた。販売するエリアが小さく決まっているらしかった。
昔、旧サイゴンの道端でお金をくださいと、どこまでも付いてくる少女に1ドル札を渡した。現地の旅行会社からお金を渡してはいけないと、きつく言われていた。なぜいけないのだろうと思った。付いてきた少女は骨の上に皮が付いているだけのようにやせていた。私は善き施しの思いでわずか1ドルを渡した。するとあっというまに数十人の人たちに囲まれた。地面から湧いてきたとしか思えなかった。この人たちに渡したら次は数百人に囲まれると思った。もう逃げるしかなかった。逃げた。数十人が追いかけてきた。彼らにとって私は数少ないお金をくれる人であった。彼らは数少ないお金をくれる慈悲深き観光客を見つけたのであった。逃げて逃げてたまたま在ったホテルに飛び込んで難を逃れた。渡してはいけないという意味がこの体験で心底から分かった。 しかしなんともやるせなさが付きまとった。忘れることができない旅の寄り道であった。
上海でも同じようであった。偽ブランドの追撃はどこまでいっても終わらなかった。ゾンビに追いかけられているようであった。散策どころではなかった。私はこんな経験は幾度もしているはずだった。不良タクシーとの渡り合いも数知れない。しかし、今回は虹橋空港から始まるこの体験がいやでしかたがなかった。なぜいやなのかと思った。いつのまにか私は月並みに上等になってしまったのかもしれない。あれから相当に年月は経っているのに、まだ人は少しも豊かになっていない。そう考えたことがますます不機嫌になっていった要因であった。
快人二十一面相
だからガイドの女性が来た時も、私はぶすっとしていた。ホテルのロビーで我々は椅子に座って三時になるのを待っていた。いまにも崩れそうに低く垂れ込めた雲が雨を呼ぶまでそう時間は掛からなかった。ロビーから玄関越しに外が見えた。「雨が降ってきましたね」私は友人に声をかけた。こんなに不愉快な思いをしてさらにその上、雨まで降ってきましたねという意味であった。相当にご機嫌が悪い証拠であった。そんなときに小柄で目がクリッとしたキュートな若い女性が飛び込むようにロビーに入ってきた。同行した友人の知人が紹介してくれた人であった。友人が細かく打ち合わせをしている間、ぶすっとしている私に彼女は「何かありましたか」と声をかけてきた。私は虹橋空港事件と偽ブランド付きまとわれ事件を、たいしたことではないのだけれどと弁解をしながら、かいつまんで話した。
彼女の名前は陳といった。「中国の人はみな自分のことしか考えません。相手のことなんか考える人はいないのです。交通事故を起こしても助ける人なんかいません。みな見ているだけです。自動車は人間を考えません。人間は自動車を考えません。みな自分のことだけでいっぱいなのです。国の表玄関で不愉快な思いをさせてしまってごめんなさい。私は自分のことしか考えない中国人は嫌いです。中国が貧しかったからこうなったといいますが、中国より貧しい国がたくさんあります。でも自分のことしか考えないことはないと思います。結局は教育の問題です。それと偽物の件ですがここ上海は居住者人口二千万人、出稼ぎ労働者一千万人と言われています。地方から出てくる人が職もなく偽ブランドを買うお客を探すような仕事をしています。連れてきた人が買わない限り給料はありません。だからあの人たちは生きていくために必死なのです。そういうことも判ってあげてください。でも買う観光客が大勢いるからにせもの商売が成り立っているのですよ」そういってからにこりと笑った。よろしいですか。わかったかなと子供を諭す母親のような口調であった。 いつの間にか、自分が上等になりすぎていたという思いは本当であった。これくらいのことで不機嫌になることはない。同様な体験を過去にさんざんしてきて、多少の許容度は広がったはずであった。しかし、中国よ、いまだこのレベルなのかという思いは拭えなかった。高層ビルは建つが人間が粗末に扱われている国。そのやるせなさも不機嫌になる要因であった。しかしルールを守ろうとしない中国民の有様を、教育の問題と言い切り、偽物を買う日本人にも責任の一端があるとさりげなく釘を刺し、にこりと笑い飛ばした若き陳小姐の見識に、私の不機嫌は吹き飛んでしまった。なんとも我の単純なことか。
夕食はまだ、早いね。どこか観光地を見てからにしましょう。陳小姐は目をくりくりとさせた。それから我々は玄関を出てタクシーを待つ人の列に並んだ。彼女は元々からの上海居住者ではなかった。地方都市から上海にでてきて日本語を学んだ。それで仕事を得て郷里からは母と妹を呼んだ。日本の女性と比較をすると四十代の見識と、知恵を備えている。生活を見据え大地に足がしっかりと付いていた。それは人との対応に現れていた。
彼女は相手に対して言葉遣いを変えていた。それは時折携帯電話に掛かってくる電話への対応でわかった。母へは慈愛に満ちた甘え声であった。友人にはフレンドリーに対応した。食事を終わって請求書に眼を通す彼女の目は威厳があった。少しでも誤りを見つけると手厳しく修正を迫った。彼女は人との関係を知って巧みに演じていることがわかった。決して弱みを見せなかった。生き馬の目を抜く中国で、自分を守るために身に着けた生き方であると私は思った。苦労をした結果なのだろうと想像した。この一点が陳小姐を陳小姐としている。日本女性との相違点であった。
私は彼女を怪人二十一面相と名づけた。「それ何」と聴いた陳小姐に明智小五郎と怪人二十一面相の話をした。「そうよ。私は相手によって言葉や態度を変えるよ。あなただってそうでしょう。先生と後輩に同じ態度をとりますか」彼女は「母でしょう。妹でしょう」と指を折った。十指では足りなかった。我々は陳小姐に怪人とあだ名をつけた。本当は快人であった。陳小姐は自己主張を一切せずに相手合わせに徹した。頭の回転が速かった。快人二十一面相であった。
タクシーは夕暮れの雨降る外灘に着いた。「ここはフランス租界であった場所」しばし佇み、霧雨に煙る蘇州川を行き来する貨物船を眺め、古い建物を楽しんだ。歴史が去来した。日華事変、上海事変、いろいろなことがあった街であった。 あの建物の上階に素敵なBARがある。食事の後に寄ってみましょうか。快人は言ったが約束は果たせなかった。食事をしてすぐにホテルに戻った。年末の飲み会が続いて胃も脳も混乱をしていた。上海時間で午後6時半にはベッドに入りすぐ深い眠りに入った。私にとって上海は休養を取るための旅行になった。
玄関先で飯を食う
翌日も雨が降った。快人はBUICKの7人乗りワゴンを仕立てて迎えに来た。上海は蟹が高い。だから今日は陽澄湖へ行く。陽澄湖は浙江省にある。陽澄湖こそ上海蟹の本場。価格は上海の十分の一で食べることができる。でも時間があるから初めに朱家角へ行く。朱家角は昔の中国が味わえる。今も人が住んでいる。快人は我々に早口で説明して運転手に出発OKの指示をだした。
朱家角は、三国時代に遡る歴史的な水路の街である。昔はここから商売をするために船で上海まで出かけたと快人は説明をした。快人の勧めで我々は船に乗った。中国のベニスとは本当であった。快人は船頭に唄を唱ってくれと所望したが叶わなかった。雨が降って寒い日であった。体が冷えてきた。こんな日は熱燗の紹興酒に限ると二人は同調した。船を下りるとすぐに料理屋に入った。ここは豚肉を醤油で煮込んだ料理を販売していた。見るからに旨そうであった。注文するか、ここは堪えて上海蟹まで我慢するか、二人で議論になった。結論は我慢であった。我々は紹興酒を熱燗で一本注文し、体を温めた。快人は我々を眺めていた。
お昼には少し早い時間だったが、どの家も人が玄関先に立って小さなどんぶりに箸を持って昼食を食べている。古い中国の風習がこの街には残っていた。食することができることを、言い換えれば食を得る糧があることを誇示する風景であった。中国史を少しでも学べば中国は動乱の歴史であることがわかる。かつて、中国人の知人がこんな質問を投げかけたことを思い出した。
「服部さん。なぜ中国政府は靖国問題をあれほど騒ぐのか意味がわかりますか」私はわからないと答えを返した。「中国では戦いに勝つと敵の墓を徹底的に破壊してしまいます。なぜなら墓を残せばそこを復讐の基点として再び勢力が復活する可能性があるからです」靖国への墓参を許せばまた軍国主義が復活するからこそ中国政府は首相の靖国参拝を叩くのであると知人は説明を加えた。動乱の世を生き抜いた中国人は、信頼できるのは身内だけであると思い至った。儒教の影響もあった。貨幣さえも政治体制が変われば紙切れとなった。他人は一切信用ができなかった。だから弱みを見せることは付け入る隙を与えることとなる。小さな玄関に立ってこうして今日も飯をたべているぞとよそに見せ付けることで自己を誇示する唯一の方法となった。見せびらかすわけではなかった。こう生きなければ中国は生きていけないのであった。それほどに動乱が続き、庶民には厳しい生存競争があった。私は横を歩く快人に思いが及んだ。彼女もまた、小さな玄関で飯を食らう一人であった。快人二十一面相にならなければ厳しい生存競争に生きていけなかった。小さな自己はすべて小さな玄関の奥に隠して生きているようにみえた。
生存競争する上海蟹
陽澄湖の蟹料理はまもなく終焉の時期にあった。湖に張り出した料亭はがらがらの状態であった。それでもクルマが湖の近くになると、客引きの女性たちがうちの蟹を食べて欲しいと走るクルマに決死隊のごとく飛び込んできた。快人はドライバーの知っているお店でよいですかと我々に合意を求めた。顧客を紹介することによって得られるバックマージンの権利をドライバーに与えたようであった。
ここでも陳小姐は快人二十一面相を演じた。分かち合うことによって自分も生きていける術を身につけている。陽澄湖も顧客利権の社会であった。誰が顧客に蟹を売るかという競争であった。駐車場は湖畔にあった。駐車場に添うようにして蟹業者が店を出していた。ドライバーは知り合いの店に入った。
注文に応じて蟹業者は生簀から蟹を選んだ。そして我々を料亭に案内した。料亭でも蟹の生簀は持っていた。しかし蟹は業者が売ってしまっている。残る料理といえば野菜料理か湖に棲む魚料理しかなかった。我々と快人とドライバーが顧客であった。快人はドライバーが一人食べるのはかわいそうだから同じ席で食べても良いですかと我々に確認を取った。
我々には雄と雌の蟹を注文した。彼らは雌蟹だけであった。我々は雑に食べた。彼らは時間を掛けて無駄を一つも作らず見事に食べた。蟹の代金は蟹業者に、料理と酒の代金は料亭に支払った。野菜料理は一皿十元であった。蟹は一匹七十元であった。陽澄湖で生きている人は顧客が売上げを作ることを肌身で知っていた。
蟹を生簀でたくさん持とうとも顧客がすでに蟹業者から蟹を買ってしまえば、蟹は売れないことを知っていた。それどころか料理屋は蟹業者が売った蟹を無料で湯掻いて顧客に出すサービスをしなければならなかった。それを拒否すれば野菜料理も魚料理も売れなくなることを知っていた。蟹業者は顧客を他の料理屋へ連れて行けば済むだけの話であった。ここでも顧客を巡る厳しい生存競争があった。
静かな帰路
翌朝、我々は静かな街を散歩した。途中おかゆで朝食をとった。新天地まで足を伸ばしてスターバックスで珈琲を飲んだ。それからホテルに戻って荷物を整えチェックアウトをした。空港まで四十元であった。もう来たときのような不愉快なことはなかった。偽ブランドを売りつける人はいたけれど、我々につきまとう人はいなかった。買わない旅行者と顔を覚えられたわけである。 快人二十一面相の人捌きは見事であった。人によって磨かれた結果であると快人を評価してみた。それにしても自分はずいぶんと上等になってしまったという想いが再び浮かんできた。上等とは鈍って(なまって)来たという意味である。
虹橋空港の売店に観光客の姿はなかった。妻から何一つ買ってきてはいけないと強いお達しがあった。食するものはおろか身につけるものは家に持ち込まないでくれと言われた。それほど中国製品は日本の主婦から信頼されていなかった。ダンボール肉饅を捏造したTV会社ディレクターの責任は大きかった。友人もまったく同じことを言われたと苦笑した。帰りは二時間十分の飛行時間であった。羽田は寒かった。持参したままクロークに仕舞い放しであったオーバーを着て襟巻きを巻いた。家に戻って初めてホームページで上海観光を検索した。上海でよく寝たせいか疲労はまったくなかった。その夜、朱家角の小さな玄関先に立って、どんぶりと箸を持って飯を食らう快人二十一面相の夢を見たかどうかは、定かではない。